プロローグ


 ロシア陸軍ヴラチーミル・イワノビッチ・ゾーロトフ中尉は七人の部下を連れ、サラエボ郊外の空港のエプロンで自分達のお客を乗せた便を待っていた。予定時刻より1時間ばかり過ぎていた。

 バルカン半島が再び戦渦に飲み込まれ、昨日まで最前線にいたヴラチーミルにとっては、ささやかな休暇だった。
 まわりには自分達と同じ客を待つ各国のSFOR(平和安定化部隊)の部隊があたりをうろついていた。
自国からの来客者はその国の部隊が受け持つ、最近出来たこの地でのルールだった。という事は、自分達はロシア人の来客を待っているということだ。
いまこんなところにくる観光客はいない、くるのは厄介なジャーナリストばかりだ。
資本主義化したとはいえ、こんなところに特派員を派遣する通信社が出来ていることは正直驚きだった。

 エプロンの一部から声が上り、 首を回してそちらを見ると旅客機が一機、滑走路にファイナルアプローチしてくるのが見えた。
 護衛についていた2機のトーネードが、空港付近からの携帯対空ミサイルによる攻撃を警戒し、フレアを撒き散らしている。イリューシン76旅客機は滑走路に着陸すると、そのまま止まらずにエプロンへ入ってきた。
空港建物の前で停止するとタラップがかけられ乗客が次々と降りてくる。
 部下の一人がロシア語で「ズドラーストィチェ!(こんにちは!)」掛れたプラカードを掲げ反応を待った。
 列の中ほどでタラップを降りた小柄な女性がこちらに気付き近づいてきた。西側製のパーカーを着て首にカメラを下げ、手には大きなダッフルバックを持っている。

「ラズリシーチェ プリツターヴィッツア」

 女性は落ち着いた様子で喋った。ロシア語には「はじめまして」に当たる言葉は無い「ラズリシーチェ プリツターヴィッツア(自己紹介させてください)」が初対面での挨拶になる。

「ニナ・ユーリィブナ・ベラーヤです」

「ロシア陸軍、ヴラチーミル・イワノビッチ・ゾーロトフ中尉です。・・・あの、失礼ですがロシア人ですか」

 その女性はとび色の髪に深い黒の目を持っていたが、一般的なスラブ人にしては小柄で、顔立ちに東洋人の面影があった。

「母が日系ドイツ人です。名前はドイツ人の祖母からいただきました。ですから私にはマーシャやニーナといった愛称はありません、ニナで結構です」

 いかにも答えなれた台詞に聞こえた。きっと毎回同じような質問をされるのだろう。

「ニナというと、もしかして、『兵器の価値は?』のシクヴァル・ニナ」

 ヴラチーミルは半年前本国から送られてきた月刊誌を思い出した。
シクヴァル・ニナ(疾風のニナ)というペンネームの記者が、西側の兵器を辛口に書いた記事で、日本のF-1支援戦闘機は国産の意地だけで飛ばしている、アメリカのB-2爆撃機は戦術を変えたが整備の負担はそれに見合ったものではないなどなかなか辛辣なものの書き方が部隊では好評だった。

「はい、私が書きました」

 後ろの部下達が歓声を上げ、握手を求めた。ヴラチーミルは適当なところでそれを打ち切らせた。

「わかりましたニナ・ユーリィブナ。サラエボまでの護衛は我々が担当します。それからは帰国まで一切の責任を追うことは出来ません。よろしいですね」
「ええ、よろしく中尉」
「まぁ、しかし、シクヴァル・ニナなら歓迎です。時間がありましたら私達の基地へ寄ってください。みんなが喜びます」
「ありがとう中尉」

 ヴラチーミルはニナを促して駐車場に止めてあるBTP装甲車に乗りこんだ。空港のゲートを出るとニナが口を開いた。

「戦況はどうです。中尉」
「それは西側で言うところのオフレコですか」
「ええ、あなた達は銃を持っていますから情報が不足していても何とかなる。私はジャーナリストですから情報こそがカラシニコフ小銃であり防弾チョッキです」
「戦況は悪化しています。旧セルビア軍で構成されたセルビア解放軍団はすでにサラエボ目前まで迫っている」
「包囲されつつあるといったほうが、よろしいのではないですか」
「そうかもしれません。南側はドブロヴニクを越え、スプリットにまで迫っています、北側はドリナ川を境に膠着している。ご存知とは思いますがサラエボではスナイパー通りが再開されました」
「ボスニア軍とクロアチア軍はどうです」
「苦戦しています。例のセルビアスポンサーが暴れている」

 3週間前、セルビア解放軍団が決起した際、それを支援するかたちで現れた飛行機部隊はセルビアスポンサーと平和安定化部隊からは呼ばれていた。国籍を消しトランスポンタをつけない彼らはセルビア解放軍団の侵攻ルート上に現れボスニア軍、クロアチア軍、平和安定化部隊とわず爆撃を繰り返し、時には迎撃にあがった戦闘機を撃墜していた。すで平和安定化部隊もイギリス空軍のトーネード2機が撃墜されていた。どこから現れ、どこへ消えるのかわからない正体不明機であるため、一時はUFOではないかと噂されていた。

「平和安定化部隊は制空権を維持できていないのですか?」
「なんとか維持しています。ただしセルビアスポンサーが低高度侵入してくるのを防げるだけではありません。いま空軍を本格的に展開するとセルビアスポンサーではないかと疑われる。NATO各国は疑心暗鬼に陥ってますよ」
「戦況が好転するようなことは万に一つ無いと?」
「まだ、わかりません。それはあなた方ジャーナリストの活躍によるでしょう。なにしろここは、ほんの3週間前まで世界の戦場から忘れ去られていた。ぜひ、この惨状を世界に知らしめ一刻でも早い支援を呼び寄せてください」
「やるだけの事はやります」
「一つ、質問してもよろしいですか、なぜあなたが派遣されたのです」

 その質問にニナは口もとに笑みを浮かべてた。

「私がフリーランスだからですよ。私を雇ったのは大手の通信社です。正社員を派遣すると負傷したり死んだりすると大きく報じられ会社の責任問題になる。雇いのフリーランスならそんなことも無い」
「なるほど…」

 ヴラチーミルはすこしこのジャーナリストに同情してしまった。ロシア軍は、ここでは前線への輸送業務と空挺によるパートロール任務を受け持ち、国連軍の参加国では一番多くの犠牲を払っていた。

「ああ、そうだ。これはまだメディアにはあまり取り上げられていませんが、数日後には日本軍が応援に駆けつけます。2ヶ月前米軍がこの地から中東に移ってしまったので、その代行としてですが」
「自衛隊? 私は実家がハバロフスクですからよく知っていますが、あんなとこせいぜい後方支援が精一杯の国ですよ。あんまり頼りになるとは思えませんね」
「まぁ、我々の評価もそんなところですが、米軍が中東に出払ってしまった今、平和安定化部隊は戦力不足です。日本が常任理事国の椅子を狙っているのなら、そこのところも少しは考えていると思います」

 ニナはそうは思わなかった。あの国は極東のなかで最も軍隊を毛嫌いする国民の国なのだ。とてもじゃないが戦場へ人を送るようなことはしないだろう。いつも形ばかりの支援をするだけだ。



最終更新:2007年10月30日 22:17