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同年。同月。七日、戊寅、幕府に於て、女房等を聚めて御酒宴有り、時に山内左衛門尉、筑後四郎兵衛尉等、屏の中門の砌に徘徊す、将軍家簾中より御覧じ、両 人を御前の縁に召して、盃酒を給はるの間、仰せられて曰く、二人共に命を殞すこと近きに在るか、一人は御敵たる可し、一人は御所に候す可き者なりと云ふ、 各怖畏の気有りて、盃を懐中して早出すと云々。廿日、辛卯、南京十五大寺に於て、衆僧を供養し、非人に施行有る可きの由、将軍家年来の御素願なり、今日京 畿内の御家人等に仰せらると云々。廿七日、戊寅、霽、宮内兵衛尉公氏、将軍家の御使として、和田左衛門尉の宅に向ふ、是義盛用意の事有るの由聞食すに依り て、真実否を尋ね仰せらるるの故なり、晩景、また刑部丞忠季を以て御使と為し、義盛の許に遣はさる、世を度り奉る可きの由、其聞有り、殊に驚き思食す所な り、先づ蜂起を止め、退いて恩裁を待ち奉る可きなりと云々。廿九日、庚辰、霽、相模次郎朝時主、駿河国より参上す、将軍家の御気色並びに厳閤の義絶にて、 彼国に籠居するの処、御用心の間、飛脚を以て之を召さると云々。
同年。五月小。二日、壬※(「刀」の「ノ」が横向き、第3水準1-14-58)、 陰、筑後左衛門尉朝重、義盛の近隣に在り、而るに義盛の館に軍兵競ひ集る、其粧を見、其音を聞きて戎服を備へ、使者を発して事の由を前大膳大夫に告ぐ、時 に件の朝臣、賓客座に在りて、杯酒方に酣なり、亭主之を聞き、独り座を起ちて御所に奔り参ず、次に三浦平六左衛門尉義村、同弟九郎右衛門尉胤義等、始めは 義盛と一諾を成し、北門を警固す可きの由、同心の起請文を書き乍ら、後には之を改変せしめ、兄弟各相議りて云ふ、早く先非を飜し、彼の内議の趣を告げ申す 可しと、後悔に及びて、則ち相州御亭に参入し、義盛已に出軍の由を申す、時に相州囲碁の会有りて、此事を聞くと雖も、敢て以て驚動の気無く、心静に目算を 加ふるの後起座し、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を装束きて幕府に参り給ふ、御所に於て敢て警衛の備無し、然れども両客の告に依りて、尼御台所並びに御 台所等営中を去り、北の御門を出で、鶴岳の別当坊に渡御と云々、申刻、和田左衛門尉義盛、伴党を率ゐて、忽ち将軍の幕下を襲ふ、百五十の軍勢を三手に相分 け、先づ幕府の南門並びに相州の御第、西北の両門を囲む、相州幕府に候せらると雖も、留守の壮士等義勢有りて、各夾板を切り、其隙を以て矢石の路と為して 攻戦す、義兵多く以て傷死す、次に広元朝臣亭に、酒客座に在り、未だ去らざる砌に、義盛の大軍競ひ到りて、門前に進む、其名字を知らずと雖も、已に矢を発 ちて攻め戦ふ、酉剋、賊徒遂に幕府の四面を囲み、旗を靡かし箭を飛ばす、朝夷名三郎義秀、惣門を敗り、南庭に乱れ入り、籠る所の御家人等を攻め撃ち、剰へ 火を御所に放ち、郭内室屋一宇を残さず焼亡す、之に依りて将軍家、右大将軍家の法花堂に入御、火災を遁れ給ふ可きの故なり、相州、大官令御共に候せらる、 凡そ義盛啻に大威を摂するのみに匪ず、其士率一以て千に当り、天地震怒して相戦ふ、今日の暮より終夜に及び、星を見るも未だ已まず、匠作全く彼の武勇を怖 畏せず、且は身命を棄て、且は健士を勧めて、調禦するの間、暁更に臨みて、義盛漸く兵尽き箭窮まり、疲馬に策ちて、前浜辺に遁れ退く。三日、癸卯、小雨灑 ぐ、義盛粮道を絶たれ、乗馬に疲るるの処、寅剋、横山馬允時兼、波多野三郎、横山五郎以下数十人の親昵従類等を引率し、腰越浦に馳せ来るの処、既に合戦の 最中なり、仍つて其党類皆蓑笠を彼所に棄つ、積りて山を成すと云々、然る後、義盛の陣に加はる、義盛時兼の合力を待ち、新覇の馬に当るべし、彼是の軍兵三 千騎、尚御家人等を追奔す、義盛重ねて御所を襲はんと擬す、然れども若宮大路は、匠作、武州防戦し給ひ、町大路は、上総三郎義氏、名越は、近江守頼茂、大 倉は、佐々木五郎義清、結城左衛門尉朝光等、各陣を張るの間、通らんと擬するに拠無し、仍つて由比浦並びに若宮大路に於て、合戦時を移す、凡そ昨日より此 昼に至るまで、攻戦已まず、軍士等各兵略を尽すと云々、酉剋、和田四郎左衛門尉義直、伊具馬太郎盛重の為に討取らる、父義盛殊に歎息す、年来義直を鍾愛せ しむるに依り、義直に禄を願ふ所なり、今に於ては、合戦に励むも益無しと云々、声を揚げて悲哭し、東西に迷惑し、遂に江戸左衛門尉能範の所従に討たると云 々、同男五郎兵衛尉義重、六郎兵衛尉義信、七郎秀盛以下の張本七人、共に誅に伏す、朝夷名三郎義秀、並びに数率等海浜に出で、船に掉して安房国に赴く、其 勢五百騎、船六艘と云々、又新左衛門尉常盛、山内先次郎左衛門尉、岡崎余一左衛門尉、横山馬允、古郡左衛門尉、和田新兵衛入道、以上大将軍六人、戦揚を遁 れて逐電すと云々、此輩悉く敗北するの間、世上無為に属す、其後、相州、行親、忠家を以て死骸等を実検せらる、仮屋を由比浦の汀に構へ、義盛以下の首を取 聚む、昏黒に及ぶの間、各松明を取る、又相川、大官命仰を承り、飛脚を発せられ、御書を京都に遣はす。
 いきほひの赴くところ、まことに、やむを得ないものと見えます。五月二日の夕刻、和田左衛門尉義盛さまは一族郎党百五十騎を率ゐて反旗をひるがへし、故 右大将家幕府御創業このかた三十年、この鎌倉の地にはじめての大兵乱が勃発いたしました。和田さまほどの御大身が、たつた百五十騎とは、案外の無勢と不審 に思召されるかも知れませぬが、和田さま御謀叛の噂は、あの三月の胤長さまの配流、四月の荏柄のお屋敷の騒動以来、御ところの内にも、また鎌倉の里人の間 にも、もつぱらでございまして、武勇に於いては、関東一の和田さま御一族も、はかりごとを密かに行ふといふ巧智には乏しかつた御様子で、大つぴらに兵具を ととのへ、戦勝の祈願なども行ひ、さうしてそのやうな叛逆の動かぬ証拠を次々と御ところのお使ひの人に依つて糾明せられ、とても、たまらなくなりまして、 有合せの軍兵をかき集めて気早やに烽火をお挙げになつてしまつたといふお工合のやうでございました。たのみにしてゐた御一族の三浦さまには裏切られ、翌 朝、かねて打合せて置いたとほりに横山馬允時兼さまの三千余騎が腰越浦に馳せ参じて和田さまの陣に加はりましたが、もうその頃には、将軍家の御教書もひろ く行きわたり、和田勢の逆賊たることが決定せられてしまつて居りましたから、それまで去就に迷つて拱手傍観してゐました諸将も続々と北条勢に来り投じ、つ ひに和田氏御一族全滅のむざんな結末と相成りました。その兵乱の一箇月ほど前、四月七日に、将軍家は何といふ理由も無く、女房等をお集めになつて華やかな 御酒宴をひらかれ、之まで例のなかつたほどに、したたかにお酒を召され、女房等にもお気軽の御冗談を仰せになつて、
我宿ノマセノハタテニハフ瓜ノナリモナラズモ二人ネマホシ
 などといふ和歌を作られて一座を和やかに笑はせ、ふいと前庭を御覧になつて、お庭の門のあたりを山内左衛門尉さまと、筑後四郎兵衛尉さまが、御警護のた めぶらぶら歩いて居られるのにお目をとめられ、あの二人の者をこれへ呼び寄せるやう仰せられ、やがて御縁ちかく伺候したお二人に御盃酒をたまはり、御機嫌 よろしくにこにこお笑ひになりながら少しお首を傾け、そのお二人のお顔をつくづくと見まもり、いづれも近く命を失ふ、ひとりは敵方、ひとりは味方、と案外 の不吉の御予言を、まるで御冗談みたいに事もなげにおつしやつて、平然として居られました。果して、それからひとつき経つて、山内左衛門尉さまは、和田勢 に加はり、筑後四郎兵衛尉さまは御ところ方にて、敵味方にわかれて戦ひ、共に討死をなさいましたが、それにつけても思ひ出される事がございます。むかし、 厩戸の皇子さまも、御二十一歳の折、大臣馬子の無道をお見事に御予言あそばしたとか、天壌と共に窮りの無き、伊勢大廟の尊き御嫡流の御方の御事は纔かに偲 び奉るさへ、おそれおほい極みでございますが、将軍家に於いては、早くより厩戸の皇子さまに御心酔と申し上げてよろしいほどに強く傾倒なされ、私どもに は、まるで何もわかりませぬけれど、かの、和を以て貴しと為すとかいふお言葉にはじまる十七箇条の御憲法など、まことに万代不易の赫奕たるおさとしで、海 のかなたの国々の者たちにも知らせてやりたい、とおつしやつて居られた事もございまして、せめてその御錦袖の端にでも、おあやかり申したいと日頃、念じて 居られた御様子で、そのせゐか、まあこれは愚かな私どもの推参な気の迷ひに違ひないのでございませうけれども、ほんの少し、相通ふやうな影が、感ぜられて なりませぬ。御予言とはいへ、ただ出鱈目に放言なさつたのがたまたま運よく的中したといふやうなものではなく、そこには、こまかな御明察もあり、必ずさう なるべき根拠をお見抜きなさつて仰出されるのに違ひございませぬが、けれども凡愚の者に於いては、明々白々の根拠をつかんでゐながらもなほ、予断を躊躇 し、或いは間違ひかも知れぬ、途中でまたどのやうに風向きが変らぬものでもない、などと愚図愚図してあたりを見廻してゐるものでございまして、それが厩戸 の皇子さま、または故右大臣さまのやうなお方になると、ためらはず鮮やかに断言なされて的中なさらぬといふ事はないのでございますから、これはやはり、御 明察と申すよりは、御霊感と名づけたはうがよろしいやうに私たちには考へられます。相通ふとは申しても、もちろんその間には天地以上の絶対の御距離があ り、このやうな事はすべて愚かな私どもの子供じみた夢に過ぎないのでございまして、厩戸の皇子さまもやはり御幼少の頃から御政務の御手助けをなされて居ら れた御様子で、まあそれ故にこそ故右大臣さまも、いつそう皇子さまをお慕ひなされたのでございませうが、共に崇仏の念篤く、また皇子さまのお傍には蘇我馬 子といふけしからぬ大臣が居られたやうに、故右大臣さまには、相州さまといふ暗いお方が控へて居りまして、馬子といひ、またあの承久年間の相州さまとい ひ、まことに日本国はじまつて以来の二のみ三無き大悪事を行ひ、しかもその政治上の手腕はあなどりがたく、わけなく之をしりぞける事も出来なかつたといふ ところなど、いづれも、ほんの偶然の事にちがひないとは万々承知いたしながら、その、わづかに一小部分の相通ふ匂ひだけでも、あの私どものお可哀さうな右 大臣さまへの、お手向の花としたいと思ふ無智な家来の一すぢの追慕の念を、どうぞお見のがし下さいまし。厩戸の皇子さまの御事は真におそれおほく、ただ烈 日を仰ぐが如く眼つぶれる思ひにて、いかなる推察も叶ふものではございませぬが、故右大臣さまの場合だけを申し上げるならば、京都の御所に対してはあれほ どの御赤心、また幕府の御政務に対してはあれほどの御英才と御手腕をお示しになりながら、あの承久の大悪事を犯すに至つた相州さまを、なぜ早くよりよろし く御教導出来なかつたかと、これも私どもの、慾の深すぎる話にきまつて居りますけれども、それだけがたつた一つの無念のところでございます。御政務に於い ても、以前は、相州さまであらうが何であらうが、それが間違つて居りますならば、ひどく手きびしくはねつけたものでごさいましたが、この和田さまの事件あ たりから、さすがの将軍家も、時々、とても、もの憂さうな御様子をお見せになりまして、
関東ハ源家ノ任地デシタガ、北条家ニトツテハ関東ハ代々ノ生地デス。気持ガチガヒマス。
 と、謎のやうなお言葉を私たちお傍の者におもらしなさつた事さへございました。さうして、その頃から、お酒の量も、めつきりふえたやうに拝されました。 このとしの五月の兵乱も、すでに三年前の承元四年十一月二十一日にお夢のお告げに依つて察知なされてゐたといふ事はまへにも申し上げて置きましたけれど も、その時のお夢は、ただ、合戦あるべしといふのみにて、どなたの反乱であるか、その主謀者の名まではおわかりになつてゐなかつたのではなからうかと思は れます。さうして一年経ち、二年経ちしてゐるうちに、勘のするどい将軍家のことでございますから、或いは和田氏あたりが老いの一徹から短慮の真似をしでか すのではあるまいか、との御懸念も生じてまゐりました御様子で、まさか、それだけの理由からでもございませんでせうけれども、この建保元年のまへのとしあ たりから、急に目立つて和田氏御一族を御寵愛なされ、わけても左衛門尉義盛さまをば、いつもお傍からはなさずに何かとこの武骨の御老人をおいたはりなさる やうになりまして、それから建保元年の二月に、れいの泉小次郎親平の陰謀があらはれ、和田氏の御一族のお方たちもそれに加担して居られて、もうその時すで に、将軍家も、いまはこれまで、とお見極めをつけておしまひになつたのではないでせうか、あの頃から、御政務の御決裁に当つても以前ほどの御熱意は見受け られず、まるで御冗談のやうに矢鱈に謀逆の囚人たちを放免させてお笑ひになつてゐるかと思ふと、急にがくりとお疲れの御様子をお示しになつたり、それまで 固く握りしめなされてゐた何物かを、その時からりと投げ出しておしまひなさつたやうな、ひどい御気抜けの態に拝されました。和田氏御一族九十八人の御請願 の時にも、また胤長さまのお屋敷の処置の時にも、これまで見受けられなかつたやうな御気力の無いお弱い御態度で相州さまのおつしやるままになつて居られま したが、この前後に於いて将軍家の御心境に何か重大の転機がおありになつたのではなからうかと、下賤の臆測で失礼千万ながら、私たちには、どうもそのやう に思はれてなりませんでした。前にも申し上げましたやうに和田さま御一族のお方たちは揃つて武勇には勝れて居られましたが、陰謀の智略に於いては欠けてゐ るところがおありの御様子で、その御謀叛も、すでに二箇月も三箇月も前から取沙汰せられて居りまして、御ところの人たちも前々から覚悟をきめて、各々ひそ かに武具をととのへ、夜も安らかには眠らずに警衛をさをさ怠らず、異常の御緊張を以て一日一日を送り迎へして居りましたのに、将軍家に於いては、わけもな い御酒宴などお開きになり、その四月七日には御警護の山内左衛門尉さまと筑後四郎兵衛尉さまをお召しになつて不思議の御予言をなされ、お二人とも、颯つと お顔色を変へて拝受の御酒盃を懐にねぢこみ早々に退出なされるのを、おだやかにお笑ひになりながら御目送あそばして、
浮キシヅミハテハ泡トゾ成リヌベキ瀬々ノ岩波身ヲクダキツツ
 といふ和歌を一首、いたづら書きのやうに懐紙に無雑作におしたためになり、またもお酒をおすごしなさるのでございました。またひきつづいて、十五日に は、折からの名月に対して和歌の例会をおひらきになり、この頃すでに和田さま御一族の方は御ところに出仕なさる事も少くなつてゐたのでございますが、その 夜、義盛さまの御嫡孫、和田新兵衛尉朝盛さまが、珍らしく、ひよつこり例会においでなさいましたので、将軍家はいたくお喜びなされ、もともとお気にいりの 朝盛さまでもございましたので、その場に於いて地頭職をいくつもいくつも一枚の紙に列記なされて、直々にお下渡しになり、
行キメグリ又モ来テ見ンフルサトノ宿モル月ハ我ヲワスルナ
 といふお歌までお作りになつて朝盛さまに抜露なされ、朝盛さまはその御恩徳に涙を流して御退出なさいましたが、その夜、朝盛さまは出家なされたとか、さ うして御父祖に宛て、叛逆のお企はおやめになりませぬか、一族に従つて主君に弓射る事も出来ず、また御ところ方に候して御父祖に敵する事も出来ず、やむな く出家いたしまする、といふ御書置を残して京都へその夜のうちに御発足になつたとか、翌る日その書置を御祖父の左衛門尉義盛さまが御覧になつて、激怒なさ れ、ただちに追手をさしむけ、朝盛さまを連れかへらせたとか、のちに人から承りましたが、将軍家はそのやうな騒ぎにも驚きなさる御様子はなく、連れかへら れた朝盛さまが、十八日に墨染の衣の御出家のお姿のままで御ところへおわびに参りました時にも、深い仔細をお尋ねなさるでもなく、またその打つて変つた入 道姿を珍らしがるわけでもなく、何もかも前から御見透しだつたやうな落ちついた御態度で、
歎キワビ世ヲソムクベキ方知ラズ吉野ノ奥モ住ミウシト云ヘリ
 といふ和歌をお下渡しになり、ただ静かにお笑ひになつて居られました。ついでながら、この将軍家の最も御寵愛なされてゐた新兵衛尉朝盛さまさへ、この五 月の兵乱には、やつぱり和田氏御一族に従ひ、黒衣の入道の姿で御ところへ攻め入つたのでございました。さて、四囲の気配が、なんとなく刻一刻とけはしくな つてまゐりましても、将軍家おひとりは、平然たるもので、二十日には、非人に施行を仰出され、これ年来の御素願の由にて、また二十七日には、ふいと思ひ出 されたやうに、ちかごろ和田が何かたくらんでゐるさうだが、どんな事をしてゐるのか見て来るやうに、といまさらの如くお使ひを和田左衛門尉さまのお宅にさ しむけ、そのお使ひの帰つてまゐりまして、やはり謀叛の御様子に見受けられます、とはつきり言上いたしましても、将軍家はお顔色もお変へにならず、それは つまらぬ事だから、やめるやうに言つて来なさい、とさらに別のお使ひをなんの御熱意も無くお出しなされたりなど致しまして、お傍で拝見してゐてもはなはだ 歯がゆく、まことに春風駘蕩とでも申しませうか、何事にもお気乗りしないらしく、失礼ながら、ただ、呆然として居られ、さうしていつも御酒気の御様子で、 あの眼ざめるばかりの凜乎たる御裁断は、その時分には片鱗だも拝する事が出来ませんでした。相州さまも、どういふわけか、その頃の将軍家の御政務御怠慢を ば見て見ぬ振りをなさつて、いや、それどころか、将軍家とお顔をお合せになるのを努めて避けていらつしやつたやうでございました。そのうちに五月二日、夕 刻に至つて大膳大夫広元さまは、ころげるやうに御ところへ駈込んでまゐりまして、和田氏一族挙兵の由を御注進申し上げました。その時ちやうど広元入道さま は、お宅にお客さまがあつてお酒盛をはじめていらつしやつたところに、和田左衛門尉さまのお宅に軍兵競ひ集るといふ報がはひり、入道さまは、お客さまも何 も打捨て、衣服も改めずに御ところへ馳せ参じたのださうで、やがて後から相州さまも、三浦さま御一族からの内報に依りただいま和田氏挙兵の事を聞き及びま したと言つて、実に落ちつき払つて御ところへ参入いたしましたが、御承知のとほり三浦さまは、もともと和田さまとは御一族で、このたびの和田氏の謀逆にも 御一族のよしみを以て加盟を致し、起請文までお書きになりながら、この日にはかに和田氏を裏切り、こつそり相州さまのお宅へ行つて和田氏の今日の蜂起を言 上いたしましたのださうで、この三浦氏御一族の裏切さへ無かつたならば、或いは、この合戦も和田氏の勝利となり北条氏全滅の憂目に逢つたかも知れず、それ ほど大事なところなのに、相州さまは、その時お宅でお客と囲碁の最中で、さうして三浦左衛門尉さまの手柄顔なる密告に接しても、ちよつと振り向いて軽く左 衛門尉さまに会釈をしただけで一言のお礼もおつしやらなかつたさうで、やがて静かに立ち上りながらも碁盤からお眼をはなさず、ゆつくりと囲碁の御勝負の結 果を目算なされ、どうやらこちらが二目の勝ちのやうです、と低く呟いて、それからお客に失礼を詫び、素早く衣服を着換へ、折烏帽子を立烏帽子に改めて、馬 を飛ばして御ところに駈けつけたとか、入道さまの見苦しい狼狽振りと較べて、いかに相州さまが武人の故とは言へ、なかなか、ただものの出来る芸当ではない と、これはのちのちの評判でございました。とかくするうちに和田勢は御ところに押し寄せ、日没の頃には、はや四面賊兵、あまつさへ御ところに火を放つもの があつたのでたちまちめらめらと八方に燃えひろがり、将軍家は、相州さまや入道さま、それから私たちお傍の者数人を引連れて故右大将家の法華堂へ御避難あ そばす事になりまして、その時も将軍家は、お酒を召し上つた御様子はございませんでしたのに、御酒気のやうに拝され、お顔も赤く光り、さうして絶えずにこ にこお笑ひになつて、時々立ちどまつては、四方の兵火を物珍らしげにお眺めになつて、こんなところへもしも賊兵が、と思ふとお傍の私たちは本当に気が気で ございませんでした。
将軍トハ、所詮、凡胎。厩戸ノ皇子ハ、寵臣ニソムカレタ事ハナカツタ。
 とおつしやつて、おひとりでひどく笑ひ咽ばれたのも、この時の事でございました。いつもお心にかけて居られるのは、遠い厩戸の皇子さまの御治蹟で、せめ てその万分の一にでもおあやかり申したいとこれまで努めて来られたのに、いま和田氏御一族にそむかれて、厩戸の皇子さまにあやかる資格も何もない御自身の 不徳をはつきり知つたとでもいふやうなお気持から、そんな事をおつしやつたのかも知れませぬが、そのお笑ひのお顔は、お痛はしいと申すよりは、もつたいな い言草ながら、おそろしく異様奇怪のものでございまして、将軍家御発狂かと一瞬うたがはれましたほど、あやしく美しく、思はず人を慄然たらしむるものがご ざいました。そのやうなうちにも御ところの周囲に於いては両軍乱れ戦ひ、中にも義盛さまの御三男朝夷名三郎義秀さま、九尺ばかりの鉄の棒を振りまはして阿 修羅のやうに荒れ狂ひ、まさに鎮西八郎さまの再来の如く向ふところ敵なく、れいの相州さまの御次男朝時さまが、さきに好色の御失態から駿河に籠居なされて ゐたのを、このたび鎌倉の風雲急なる由を聞いてどさくさまぎれに帰参なされて、ひとつ大きな手柄を立て以前の好色の汚名を雪がうとしてこの義秀さまの背後 から組みつかれたさうですが、もとより義秀さまの相手ではなくたちまち鉄棒をくらつて大怪我をなされ、それでもお怪我くらゐですんで、いのちを落さぬとこ ろが何とも言へずお偉いところだと、奇妙なお世辞を申す者もあり、どうやら面目をほどこす事が出来ましたさうで、まことに和田勢はこの義秀さまばかりでな くその百五十騎ことごとく一騎当千の荒武者で、はじめは軍勢を三手にわけて第一は相州の宅、つぎは広元入道の宅、さうして一手は御ところに参入して将軍家 を擁護し、大義名分の存するところを明かにして、奸賊相州ならびに入道を誅するといふ仕組みの筈でございましたのださうですが、相州さまも入道さまも逸早 く御ところに駈込んでおしまひになりましたので、いまは詮方なしと三軍が力を合せて御ところに攻め入る事になつたとか、御ところ方に於いては匠作泰時さま が御大将となつて一族郎党を叱咤鞭撻なされ、みづからも身命を捨て防戦につとめて、終夜相戦ひ、暁に及んで無勢の和田方はさすがに疲労し、ひとまづ、さつ と海辺まで軍を引き上げ、その頃から、小雨がしとしとと降り出しまして、恐ろしいうちにも、悲しく、あはれ深い合戦でございました。翌る三日の寅剋には、 和田勢への援軍、横山馬允時兼さまの率ゐる三千余騎が腰越浦に駈けつけてまゐりまして、御ところ方は、にはかに心細く危く相成り、その時、間髪を入れず智 者の相州さまは、諸方に将軍家の御教書を発した為に、それまで、どちらがいつたい賊軍なのか、わけがわからず待機中であつた諸国の軍勢も一度にどつと御と ころ方について、ここに全く大勢が決せられた御様子でございましたが、法華堂に於いて相州さまから御教書の御判を請はれて、将軍家はその御教書の文章をざ つと御一読なされ、声を立ててお笑ひになられ、
コレハ誰ノ文章デス
 と呆れなさつたやうにお眼を丸くして相州さまにお尋ねになりました。その時お傍の私たちも、それを拝見いたしましたが、いかにもひどい、たどたどしい御 文脈で、そのくせ変に野暮つたい狡猾なところもあり、将軍家が無邪気にお笑ひなされたのも、もつともと思ひました。その時の文章をいまでも、うろ覚えに記 憶いたして居りますが、なんでもこんな工合ひの御教書でございました。
きん辺のものに、このよしをふれて、めしぐすべきなり、わだのさゑもん、つちやのひやう衛、よこ山のものども、むほんをおこして、きみをいたてまつるといへども、べちの事なき也、かたきのちりぢりになりたるを、いそぎうちとりてまいらすへし、
  五月三日 巳剋
大膳大夫
相模守
 けれども相州さまは、にこりともなさらず、
「いくさの最中には、これくらゐのもので、ちやうどいいのです。将軍家には、戦ふ者の心が、わかつて居られませぬ。」とかつて色をなしてお怒りの御様子を いちどもお見せにならなかつた相州さまも、この時ばかりは、大声で呶鳴るやうにおつしやいました。武人はやはり合戦となると、御平常とがらりと変つて、い かめしく猛り立つもののやうでございます。将軍家も流石に御不興気のお顔をなされ、何もおつしやらず、さつさと御判をたまはり、
相州ハ、マダ、死ニタクナイモノト見エル。
 とあとで、誰にとも無くおひとりで呟いて居られました。将軍家と相州さまが争論に似た事をなさいましたのは、あとにもさきにも、ただこの時いちどきり で、つねに御衝突が絶えなかつたらしいなどとれいの仔細らしい取沙汰はもとより根も葉も無い事でございまして、将軍家の御闊達と無類の御気品はもとよりの 事、相州さまにしても当時抜群の大政治家でございますし、そのやうなお方たちが、決してあらはな御衝突をなさるわけはなく、それは前にも申し上げて置いた やうに思ひますが、いつも、お互ひの御胸中を素早くお見透しなさつて、瞬時に御首肯し合ひ、笑つておわかれになるといふやうな案配でございましたのに、こ の時に限つて、それは相州さまが合戦のためにお気が立つて居られたせゐかと思はれますが、少しおだやかならぬものがただよひ、相州さまはその頃すでに五十 の坂を越して居られまして、なほまた北条家存亡の大合戦の最中の事でもございましたから、そんなのは、さしたる事でもなかつたやうに覚えて居られたかも知 れませぬが、生れてこのかた御父母君にさへ、大声で叱られるなどといふことの無かつたお若い将軍家にとつては、なかなかに忘れられぬ思ひもおありではなか らうかと、その日うす暗い御堂の隅に控へてゐた当時十七歳の私まで、胸苦しく拝察申し上げたことでございました。

同年。同月。四日、甲辰、小雨降る、古郡左衛門尉兄弟は、甲斐国坂東山波加利の東競石郷二木に於て自殺す矣、和田新左衛門尉常盛並びに横山右馬允時宗等 は、坂東山償原別所に於て自殺すと云々、時兼は横山権守時広の嫡男なり、伯母は、義盛の妻となり、妹は又常盛に嫁す、故に今此謀叛に与同すと云々、件の両 人の首今日到来す、凡そ固瀬河辺に梟する所の首二百三十四と云々、辰剋、将軍家法花堂より東御所に入御、其後西の御門に於て、両日合戦の間に、疵を被る軍 士等を召聚められて、実検を加へらる、山城判官行村奉行たり、行親、忠家之に相副ふ、疵を被るの者凡そ九百八十八人なり。五日、乙巳、天霽、義盛、時兼以 下の謀叛の輩の所領美作淡路等の国の守護職、横山庄以下の宗たるの所々、先づ以て之を収公し、勲功の賞に充てらる可しと云々、相州、大官命之を沙汰し申さ る、次に侍別当の事、義盛の闕を以て相州に仰せらると云々。六日、丙午、天霽、申剋、将軍家前大膳大夫広元朝臣の亭に入御、是去る二日、御所焼失せるに依 るなり、御台所、又南御堂より其所に入御、尼御台所、本所に渡御。九日、己酉、天晴、広元朝臣奉行として、御教書を在京の御家人の中に送らる、相州、大官 命連署し、又御判を載せらると云々、是在京の武士参向す可からず、関東に於ては、静謐せしめ畢んぬ、早く院御所を守護す可し、又謀叛の輩西海に廻るの由其 聞有り、用意致す可きの由なり、宗として佐々木左衛門尉広綱に仰せらると云々、又和田平太胤長、配所陸奥国岩瀬郡鏡沼の南辺に於て誅せらる。
 五月三日、酉剋に至つて和田四郎左衙門尉義直さまが討死をなされ、日頃この御四男の義直さまを何ものにも代へがたくお可愛がりになつてゐた老父義盛さま は、その悲報をお聞きになつて、落馬せんばかりに驚き、人まへもはばからず身を震はせて号泣し、あれが死んだのでは、もう、なんにもならぬ、合戦もいやに なつた、と嬰児のむつかる如く泣きに泣いて戦場をさまよひ歩き、つひに江戸左衛門尉能範の所従に討たれ、つづいて御一族も或いは討死、或いは逐電、ここに 鎌倉の天地震怒の和田合戦も、やうやくをさまり、その夜は由比浦の汀に仮屋を設け、波の音を聞きつつ、数百の松明の光のもとで左衛門尉義盛さま以下の御首 を実検せられたとか、将軍家は首実検をおいとひなされ、私たち近習の者と共に御堂に籠つておいでなさいまして、少しくお酒などおあがりになつて、けれども 流石にその夜はお気軽の御冗談もおつしやらず、うつむいて何やら御思案の御様子でございました。
焔ノミ虚空ニミテル阿鼻地獄ユクヘモナシトイフモハカナシ
カクテノミ有リテハカナキ世ノ中ヲウシトヤイハン哀トヤ云ハン
神トイヒ仏トイフモヨノナカノ人ノ心ノホカノモノカハ
 などといふ和歌のお出来になつたのもその夜の事でございまして、五月雨がやまず降り続き、どこからともなく屍臭がその御堂の奥にまで忍び込んでまゐりま して、それから二十数年経つた今でも私はその夜の淋しい御堂の有様をまざまざと夢に見るほどでございます。翌る四日には、将軍家は法華堂から、焼け残つた 尼御台さまの御邸宅にお移りなされ、やがて西の御門に幔幕を曳いて将軍家のお座をまうけ、疵ついた軍士を召集めておいたはりの閲を給ふ事になりまして、手 負ひの将士九百八十八人が続々と御前に集り、れいの相模次郎朝時さまも御兄君の匠作泰時さまに背負はれてその場に参りまして、あの時の朝夷名三郎義秀さま の大鉄棒がよほどこたへたと見え、その呻き声のお高いこと、ことさらに御苦痛をお装ひなのではなからうかと思はれたほどに大袈裟にお顔をゆがめ、無念、無 念、とお叫びになるので、お庭のここかしこから軽い失笑の声さへ起りまして、けれども将軍家は終始、厳粛のお態度を変へず、いちいち重く御首肯なされて居 られました。ついで将軍家は、このたびの合戦に於いて抜群の勲功をいたした者をお尋ねに相成り、諸将士はこれに対して異口同音に、敵方に於いては朝夷名三 郎、御ところ方に於いては匠作泰時さまをお挙げになつて、匠作泰時さまはただちに御前ちかく召されておほめの御言葉を賜りましたが、その時、匠作さまは恥 ぢらふ如く内気の笑ひをお顔に浮べ、勲功などとは、もつてのほか、匠作このたびの合戦に於いては、まことにぶざまの事ばかり多く、実はついたちの夜にばか な大酒をいたしまして、二日にはひどい宿酔、それ和田氏の御挙兵と聞きましても夢うつつ、ほとんど手さぐりにて、とにかく甲冑をつけ馬に乗つてはみました が、西も東も心許なく、ああ大酒はいかん、もののお役に立ち申さぬ、爾後は禁酒だ、と固く心に誓ひ、なほも呆然たるうちに敵兵と逢ひ、数度戦つて居ります るうちに喉がかわいてたまらなくなり、水を、と士卒に言ひつけましたところ、こいつまた気をきかして小筒に酒をつめて差し出しまして、一口のんですぐに酒 だと気がつきましたものの、酒飲みの意地汚なさ、捨てるには惜しく、ついさつきの禁酒の誓を破つてごくごくと一滴あまさず飲みほして、これからが本当の禁 酒だなどと、まことにわれながらその薄志弱行にはあいそがつきまして、さう言ひながらも昨夜はまた戦勝の心祝ひなどと理窟をつけて少しやつてゐるやうな有 様なのでございますから、まだまだ修行はいたらず、とても、おほめにあづかるほどの男ではございませぬ、この後は努めて、大酒をつつしむやうに致しまする から、どうか、このたびの失態は御寛恕のほどを願はしく存じます、としんから恐縮し切つて居られる御様子で汗を流して言上なさいましたが、将軍家をはじめ 満座の諸将士ひとしく、この匠作さまの功にほこらぬ美しいお心に敬服なされたやうでございました。この匠作泰時さまは、その翌日、抜群の勲功により陸奥国 遠田郡を賜りましたけれども、固く之を御辞退申し上げ、そもそもこの度の合戦は和田左衛門尉、将軍家に対して逆心をさしはさまず、ただ相州を討たんとして 挙兵なされたのであつて、自分は相州の子として父の敵を迎へ撃つたまでの事、しかも自分の用兵拙劣にして多くの御ところの将士を失ひ罪万死に価すと雖も幕 臣として一の勲功も無し、とおつしやつたとか、いよいよ匠作さまのお名があがつて、しばらくは、どこへまゐりましても匠作さまの御評判で持ち切りの有様で ございました。さて、匠作さまの禁酒のしくじり話の御披露がございました四日の、手負ひの軍士の集りました席上で、裏切者の三浦左衛門尉義村さまが、また も御卑怯の振舞ひに及び、心ある将士にいたく顰蹙せられましたが、合戦の後にはとかくこのやうなごたごたが起るものと見えます。波多野中務丞忠綱さまの米 町ならびに政所に於いて両度ともに、まつさきかけて進みましたといふ申立てに対して、三浦左衛門尉さまはやをら御前に進み出て、米町の先陣は知らず、政所 に於いて先登を承つたのはこの左衛門尉義村にちがひございませぬ、と異議をさしはさみましたので、たちまち御前に於いてお二人の醜い激論が生じ、相州さま は、忠綱さまに耳打ちして幔幕の陰にお連れになつて、これは私も後で人からうかがつた話でございますが、なんでもその折、相州さまのおつしやるには、あな たも落ちついてお考へになつたらどうです、このたびの合戦が、まあまあ無事にをさまつたのも三浦氏の忠義な密告のおかげです、米町の先陣はあなたときまつ てゐるのだから、その功一つで我慢なさつて、もう一つの政所のはうは三浦氏に潔くおゆづりになつたはうが御賢明かと思ひますが、どうでせう、また、あとあ と、いい事もありますから、といふ事だつたさうで、忠綱さまはそれを承つてせせら笑ひ、冗談言つてはいけません、勇士の戦場に向ふに当つては、ただ先登に 進まんと念ずるのみ、武人の栄誉これに過ぎたるはなく、忠綱いやしくも父祖代々の家業を継いで弓馬の事にたずさはる上は、たとひ十度、二十度の先陣も敢へ て多しとせず、いよいよ万代に武名を輝かさんと志してゐるのに、一つでたくさん、もう一つのはうは三浦氏にゆづれなどと、あなたはそれでも武士か、忠綱は 恩賞も何もほしくござらぬ、ただ先陣の誉れを得たいだけです、と見事に言ひ切つたので、さすがの相州さまも二の句が継げず、いよいよ忠綱さまと義村さまを 藤御壺の内に於いて対決せしむる事に相成り、その場には将軍家と私たち少数の近習の他に、相州さま、入道さま、民部大夫行光さまだけが伺候して余人は遠ざ けられ、将軍家御直々のお裁きが行はれました。忠綱さまと義村さまは、お庭の簀子の円座におすわりになつて、まづ義村さまが、このたび和田左衛門尉義盛の 政所襲来と同時に、義村、政所の前の南側に馳せ向ひ、まつさきに敵勢に矢を射込みましたが、塵ひとつ義村の眼前を駈け行くものは見受けられませんでした、 といかにも実直さうに申し述べました。忠綱さまはせき込んで、いやいや忠綱ひとり、忠綱ひとり先登に進みました、南側も北側もありません、まつさきかけて 進みました、うしろには自分の子の経朝、朝定がつづき、三浦氏は、そのまたうしろではなかつたでせうか、あまりかけ離れてゐると塵ひとつも見えない道理 で、或いはまた三浦氏も実は盲目なのかも知れず、盲目は相手になりませぬゆゑ、どうかあの場に居合せた士卒たちを捜し出してそれにお尋ねのほどをお願ひ申 し上げまする、とお顔を真赤になさつてどもりどもりおつしやいましたが、あまりお口汚いので、相州さまは片手を挙げて忠綱さまを制し、将軍家にちらと目く ばせをなさいました。忠綱さまを御譴責なさいませと将軍家におすすめなさるやうな目くばせの仕方でございましたが、将軍家はこのやうな御裁判には少しもお 気がすすまぬらしく、先刻から時々わき見などなさつて、ひどくもの憂げの御様子で、相州さまの目くばせにも一向お感じなさらず、
士卒ヲ捜スガヨイ
 とおつしやつて平然たるものでございました。やがて士卒三人おそるおそるお庭の片隅にまかり出まして、そのうちの一人が少し進み出て、赤皮縅の鎧、葦毛 の馬の武者一騎あざやかに先登かけて居られました、と申し述べ、たちまち義村さまは平伏なされ、忠綱さまは得々としてあたりを見廻しました。赤皮縅は忠綱 さまの御鎧、またその葦毛の馬は、相州さまから拝領の片淵と号する忠綱さま御自慢の名馬に相違ないのでございますから、もはや争論の余地も無く、将軍家 は、興覚め顔に何事もおつしやらず、ついとお座を立つておしまひになりました。けれども義村さまは、なんと言つてもこのたびは、裏切りの大功名を立てたお 方でございますし、そこは相州さま、入道さま等のお取計ひもあつて、何のおかまひもなかつたばかりか、陸奥国名取郡をたまはり、かへつて忠綱さまは、いか に両度の先登の功があつたとはいへ、義村さまほどの名門の御重臣を、お調子に乗つて盲目だのなんだの勝手の悪口を致したのはけしからぬとあつて、なんの恩 賞も無かつたとかいふ事でございましたが、それにつけても左衛門尉義村さまは御一族の和田氏を裏切り、しかもその上、他人の軍功まで奪はうとなさつたと は、いやはや、どうにも、きたなき振舞ひと、おのづから、匠作泰時さまの御謙遜の御態度とも比較せられ、匠作さまのお名はあがるばかりで、義村さまの御と ころに於ける不評判はまことに絶頂を極めました。

同年。六月大。廿六日、乙未、大霽、相州、武州、大官命等参会し、御所新造の事群議に及ぶ、是去る五月合戦の時、焼失するに依りてなり。
同年。七月小。七日、丙午、霽、今日御所に於て和歌例会有り、相州、修理亮、東平太重胤等其座に候する所なり。九日、戊申、陰、御所の造営、重ねて其沙汰 有り。廿日、己未、故和田左衛門尉義盛の妻、厚免を蒙る、是豊受太神宮七社禰宜度会康高の女子なり、夫謀叛の科に依りて、所領を召放たるるの上、其身又囚 人と為る、而して件の領所と謂ふは、神宮一円の御厨たるの間、禰宜等子細を申すに依り、唯に所を本宮に返付せらるるのみならず、剰へ恩赦に預る、是御敬神 の他に異るの故なり。廿三日、壬戌、新造の御所の事、其沙汰有り、今日御前に於て、指図少々改めらるるの所々有り、今度中門を立てらる可きの由と云々。
同年。八月小。三日、辛未、天晴、風静なり、今日申剋、御所の上棟なり、相州以下諸人群参す。六日、甲戌、新造の御所の御障子の画図の風情の事、先々の絵 御意に相叶はず。十七日、乙酉、京極侍従三位、二条中将雅経朝臣に付し、和歌文書等を将軍家に献ず、御入興の外他無しと云々。十八日、丙戌、霽、子剋、将 軍家南面に出御、時に灯消え、人定まりて、悄然として音無し、只月色蛬思心を傷むる計なり、御歌数首、御独吟有り、丑剋に及びて、夢の如くして青女一人前 庭を奔り通る、頻りに問はしめ給ふと雖も、遂に名乗らず、而して漸く門外に至るの程、俄かに光物有り、頗る松明の光の如し。廿日、戊子、天晴風静なり、将 軍家新御所に移徒なり、御車京都より遅く到るの間、御輿を用ひらる、酉刻、前大膳大夫広元朝臣の第より、新御所に入御、大須賀太郎道信黄牛を牽く。廿二 日、庚寅、天晴、未剋、鶴岳上宮の宝殿に、黄蝶大小群集す、人之を怪しむ。
同年。九月大。廿二日、戊午、将軍家火取沢辺に逍遙せしめ給ふ、是草花秋興を覧るに依りてなり、武蔵守、修理亮、出雲守、三浦左衛門尉、結城左衛門尉、内藤右馬允等供奉せしむ、皆歌道に携はるの輩なり。
同年。十月大。三日、己亥、今日御書を以て、大宮大納言殿の方に仰せらるる事有り、公家より西国の御領等の臨時の公事を課せらるるなり、一切御沙汰に及ぶ 可からざるの由、広元朝臣の如き、之を申すと雖も、仰せて曰く、一向停止の儀に於ては、然る可からず。十三日、己酉、天晴、夜に入つて雷鳴、同時に御所の 南庭に、狐鳴くこと度々に及ぶと云々。
同年。十一月大。廿三日、己丑、天晴、京極侍従三位、相伝の私本万葉集一部を将軍家に献ず、御賞翫他無し、重宝何物か之に過ぎん乎の由、仰有りと云々。
同年。十二月大。三日、己亥、将軍家寿福寺に御参、仏事を修せしめ給ふ、是左衛門尉義盛以下の亡卒得脱の為と云々。七日、癸卯、鷹狩を停止す可きの旨、諸 国の守護人等に仰せらる、事度々厳命有りと雖も、放逸の輩、動もすれば違犯有るの旨、聞食し及ぶに依りて、此の如しと云々、但し所処の神社の貢税の事に於 ては、制するの限に非ずと云々。
 五月六日には将軍家は、広元入道さまの御邸宅にお移りになり、しばらくここを仮の御ところに定め、つづいて御台所さまも御入りあそばされ、けれども鎌倉 近辺の人心はなかなかに静まらぬ様子で、五月、六月、ふたつきは何やら御ところの内外もざわめいて、御ところの人たちすべて落ちつかず、安からぬ気持でご ざいました。相州さまひとりは、朝早くから夜おそくまで、ひどくおいそがしさうに御ところのあちこちを走りまはつて居られましたが、将軍家は相変らず、ぼ んやりなされて、一日ぢゆうお奥でお草子などごらんになつて居られる事もございました。その頃は、御政務の御決裁にもほとんど御興味を失はれたやうに見受 けられ、相州さまと入道さまに一切おまかせの御様子でございました。けれども、さすがに、御朝廷に対し奉る御忠誠だけは、いつ、いかなる場合も曇ることな く、この合戦直後の九日にも在京の御家人に宛て、関東はすでに平穏に帰したから、誰ひとり鎌倉へ馳せ参ずるには及ばぬ、それよりも、謀叛の残党が西方に遁 走したとの説もあることゆゑ、専心、院御所を御守護まゐらすべし、との御教書を広元入道さまにお言ひつけになつて送付せしめられ、また、このとしの十月三 日に、京の御所より幕府に対し臨時の公事を課せられ、幕府もその頃は兵火の災厄をかうむつた後ではあり、御ところの新造なども行ひ、だいぶお懐がお苦しか つたらしく、広元入道さまなどは、とんでもない、とても応じ切れるものでない、まつぴらごめん、とただひたすらに幕府大事の心から浅墓にもお断りしようと して、入道さま御一存でもつてしかるべく御返辞のお手続きにとりかかつて居られるとの事の由を、お聞きになつた将軍家は、お眠りから覚めてむつくり起き上 られたお人のやうに全く別人の如き峻厳のお態度をお示しになり、入道さまを召して、かたじけなくも御公家より御徴収の御沙汰を拝し、逡巡するとは大不忠、 どのやうな場合に於いても、必ず、すみやかに応ずべきです、今後も同様、と激しい御口調で仰せられ、入道さまは手続きのやり直しに大まごつきにまごついた 御様子でございました。まことにこの京都の御所に対し奉る御赤心と、それから敬神崇仏のお心の深さは、その御一生をつらぬいて不変のもののやうでございま した。その時分から少しづつ御政務をお怠りなさるやうになつたとはいふものの、事、御朝廷に関するとお眠りから覚めたやうにおなりになると同様に、神仏に 関してもまた、必ず、すすんで独自の御決裁をなさいましたやうでございます。そのとしの七月二十日に、故左衛門尉義盛さまの御内室が所領も没収され囚人と して押し込められて居りましたのを、その身は御赦免にあづかり、あまつさへ領地もお返しに相成るといふ重なる御恩徳に浴しまして、それは勿論、将軍家がか ねがね和田氏御一族を御憐憫なされてゐたからでもございませうが、さらに重大の理由としては、その御内室は豊受太神宮七社の禰宜のお娘で、その御領地とい ふのも太神宮七社の御経営に当てられてゐて、それを没収せられては神宮一円の維持も困難になりますといふ禰宜等の訴へがございましたので、将軍家に於いて は一議に及ばず所領返付を仰出され、事のついでに、御内室のお身柄をも御放免なされたといふ御事情のやうでございました。また、将軍家は鷹狩のむごたらし い遊戯を極度にお厭ひなされ、建暦二年の八月にも、またその後にもたびたび之の禁止すべき旨を仰出されて居りましたが、このとしの十二月七日には、さらに 厳重に鷹狩停止の事を諸国の守護人に御発令なされ、但し全国の神社がその貢税のために鷹狩を行ふのは一向さしつかへない、と神社の御儀式を重んじ、貢税の 便宜をはからしむる思召しから、特別に御除外の例をお設けになつたほどでございました。このやうに、京都の御所や、諸国の神社仏閣の事になるとお眠りから お覚めになるのでごさいましたが、あとはもう、相州さまや入道さまにお任せ切りで、御自身は、ただ、のんびりと遊び暮して居られたやうなお工合でございま した。五月の合戦で御ところが全焼いたしまして、六月、七月、八月の三箇月間は、将軍家に於いては、もつぱら新造の御ところの御設計に夢中の御様子でござ いまして、実にしばしば工事の現場に御渡りなされ、ああでもない、かうでもないとさまざまに御工夫あそばされて、せつかく出来上りかけてゐる門を、または じめから作り直させたり、お襖の絵のお好みもむづかしく、わざわざお使ひを京都に送り、したしく京風の襖絵を調べて来させたり、なかなかの凝り様で、相州 さまも今は何事もさからはず、将軍家の御設計のとほりに新しい御ところの工事を督促なされ、その京風の御新築をかへつて物珍らしげに拝見してゐるといふや うなふうでございました。相州さまも、その頃は故左衛門尉義盛さまのお跡を襲つてこのたびは侍別当をも兼ね、いきほひ隆々たるもので、けれども決してあら はには高ぶらず、かへつて頭を低くなされて、私ども下々の者にも如才なく御愛嬌を振撒き、将軍家に対しては、また別段と、不自然に見えるくらゐに慇懃鄭重 の物腰で御挨拶をなされ、将軍家もまた、以前にくらべると何かと遠慮の、お優しいお言葉で相州さまに応対なさるやうになり、うはべだけを拝見するとお二人 の間は、まへにもまして御円満、お互ひにおいたはりなされ、お睦げでございまして、そのとしの七月七日に、仮御ところに於いて、合戦以来はじめての和歌御 会がひらかれました時にも、めづらしく相州さまがその御会に御出席なされ、松風は水の音に似てゐるとか何とかいふ、ほんの間に合せ程度の和歌を二つ三つお 作りなさつたりなど致しまして、どなたも感服なさいませんでしたが、将軍家だけはそのやうなお歌をもいちいちお取上げになり、さすがに人間の出来てゐるお 方はお歌もしつかりして居られる、とまんざら御嘲弄でもなささうな真面目の御口調でおほめになりまして、なるほどさうおつしやられて見ると、相州さまのお 歌は、松風は水の音にしても、また鶉が鳴いて月が傾いたとかいふ歌にしても、なんでもない景物なのに相州さまがおよみになると、奇妙に凄いものが感ぜられ ない事もないやうな気もいたしまして、まことに相州さまといふお人は、あやしいお人柄の方でございます。将軍家のお歌も、このとしあたりが最も真剣に御労 作なされた御時期でございまして、その翌年あたりからは、御歌道にもおこたり、時たま御酒宴の御座興にたはむれのお歌をおよみになるくらゐのもので、まじ めに御思案なされてお作りになる事は年に二度か三度、ほとんど数へるくらゐに少くなつてしまひました。
何事モ十年デス。アトハ、余生ト言ツテヨイ。
 その頃しきりに、おつしやつて居られまして、それは或いは御政務の事に就いておつしやつて居られたのかも知れませぬが、けれどもまた歌道に於いても、そ の建保元年あたりには、もうそろそろ将軍家の和歌の御研鑽も十年ちかくなつてゐたのではないでせうか。御幼少の頃より和歌に親しみ、古写本の断片などに依 り少しづつ本格のお手習ひをはじめ、十四歳の頃にはすでにお傍の人たちを瞠若たらしむるほどの秀歌をおよみになつて、さらにそのとし、内藤兵衛尉朝親さま が京都よりの御土産として新古今和歌集一巻を献上なされ、しかもその和歌集には御父君、右大将家のお歌も撰載せられて居りましたので、御感激もひとしほ強 く、その和歌集に就いていよいよ歌道にはげみ、御ところの風流人を召集めて和歌の御会などもおひらきになり、たまたま御気色を蒙つた御家人が、和歌一首た てまつつたところ、たちまち御宥免になつたとかいふ事さへあつたほどで、承元二年、十七歳の御時に清綱さまから相伝の古今和歌集の献上があり、末代までの 重宝とおよろこびになつたのは前にも申し上げました事で、その翌年には御夢想に依つて住吉社に二十首の御詠歌を奉り、事のついでに、京極中将定家朝臣に御 初学以来のお歌の中から三十首を選んで送り、ほどなく、定家卿からその三十首のお歌にそれぞれお点をつけて返進してまゐりまして、それ以来、定家卿につい て更に熱心に歌道にはげまれ、「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬまでも高き姿を願ひて、」などといふ定家卿のお教へに従ひ、翌々年の七月には、 時ニヨリ過グレバ民ノ歎キナリ八大竜王雨止メ給ヘといふ堂々たるお歌をお作りになられ、もはや押しも押されもせぬ古今独歩の大歌人たる御品格をお示しにな り、さうして、その十月には鴨の長明入道さまにお逢ひになり、稲妻の胸にひらめくが如く一瞬にして和歌の奥儀を感得なされ、それ以後のお歌はことごとく珠 玉ならざるはなく、いまは、はや御年二十二歳、御自身も、このとしをもつて、わが歌の絶頂とお見極めをつけられた御様子でございまして、御詠歌の数もおび ただしく、深夜、子の剋、丑の剋まで御寝なさらずにお歌を御労作なさつて居られる事も珍らしくはなく、そのやうな折にはお顔の色も蒼ざめ、おからだも透き とほるやうなこの世のお方でない不思議の精霊を拝する思ひが致しまして、精霊が精霊を呼ぶとでも申すのでございませうか、御苦吟の将軍家のお目の前に、寒 々した女がすつと夢のやうに立つて、私もそれは見ました、まざまざと見ました、あなやの声を発するいとまもなく、矢のやうに飛んで消え去りましたが、天稟 の歌人の御苦吟の折には、このやうな不思議も敢へて異とするに足らぬのではなからうかと、身の毛もよだつ思ひに震へながらも私はそのやうに考へ直した事で ございました。このとしの暮に将軍家は、あの、のちに鎌倉右大臣家集または金槐和歌集と呼ばれた古今に比類なく美しい御和歌集を御自身のお手によつて御編 纂なされたのでございますが、御師匠の定家卿もその前後には、この尊くすぐれた御弟子に対してひとかたならず御助勢を申し、前年の建暦二年の九月にも筑後 前司頼時さまに託して御消息ならびに和歌の御文書を将軍家に送りまゐらせ、またこのとしには、八月にいちど、十一月にいちど和歌の文書を数々御献上に相成 り、殊にも十一月の御文籍は、相伝の私本の万葉集だつたので、あの承元二年に清綱さまから相伝の古今和歌集を献上せられた時よりも更に深くおよろこびの御 様子に拝され、将軍家にとつては、古今和歌集も、また万葉集も、まさかはじめてお手にせられたといふわけはなく、不完全ながら写本の二、三は御所持になつ て居られて前々からそのだいたいを熟知なされ、万葉集の歌に劣らぬ高い調べのお歌もずいぶん早くよりお作りになつていらつしやつたのでございますが、五月 の和田合戦で御ところの文庫の書籍も大半は焼失し、お心淋しく存じて居られた折も折、定家卿から相伝の私本の万葉集が一部送られてまゐりましたのでござい ますから、そのおよろこびの深さもお察し出来るやうな気が致します。新しい御ところも御落成いたし、八月二十日にさかんな御儀式を以て御入りなされ、御と ころの御設計に就いての御熱中も一段落と思ふと、こんどはこの和歌に最後の異常の御傾倒がはじまりまして、御政務は、やはりひと任せ、日夜、お歌の事ばか り御案じなされて居られる御様子で、お奥の女房たちを召集めて和歌の勝負をお言ひつけになるとすぐにまた、女人には和歌がわからぬ、とおつしやつて、武州 さま、修理亮さま、出雲守さま、三浦左衛門尉さま、結城左衛門尉さま、内藤右馬允さま等のれいの風流武者の面々を引連れて火取沢辺に秋草を御興覧においで になり、たいへんの御機嫌で御連歌などをなされ、相州さまこそ、何もおつしやらない御様子でごさいましたが、数ある御家人の中には、その頃の将軍家の御行 状に眉をひそめて居られたお方もあつた御様子で、たうとうそのとしの九月二十六日には、短慮一徹の長沼五郎宗政さまが、御ところに於いて大声を張り挙げ思 ふさま将軍家の悪口を申し上げたといふ、まことに気まづい事さへ起つてしまひました。故畠山次郎重忠さまの御末子、阿闍梨重慶さまが、日光山の麓に於いて 浮浪の徒を集めて、謀叛をたくらんでゐるといふ知らせが九月の十九日にございまして、御ところに於いてはその日のうちに長沼五郎宗政さまを鎮圧のために御 差遣に相成りましたやうで、宗政さまは、ただちに下野国さして御進発、二十六日に、重慶さまのお首をさげて御意気揚々と帰つてまゐりました。将軍家はその 折すこしく御酒気だつたのでございますが、宗政さまがお首をひつさげて御参着の事をちらと小耳にはさんで御眉をひそめられ、殺せとは誰の言ひつけ、畠山重 忠は、このたびの和田左衛門尉とひとしく、もともと罪なくして誅せられたる幕府の忠臣、その末子がいささか恨みを含んで陰謀をたくらんだとて、何事か有ら んや、よつて先づ其身を生虜らしめ、重慶より親しく事情を聴取いたし、しかるのちに沙汰あるべきを、いきなり殺して首をひつさげて帰るとは、なんたる粗忽 者、神仏も怒り給はん、出仕をさしとめるやう、と案外の御気色で仲兼さまに仰せつけに相成り、仲兼さまはそのお叱りのお言葉をそのまま宗政さまにお伝へ申 しましたところが、宗政さまは、きりりと眦を決し、おそれながら、たはけたお言葉、かの法師を生虜り召連れまゐるは最も易き事なりしかど、すでに叛逆の証 拠歴然、もしこの者を生虜つて鎌倉に連れ帰らば、もろもろの女房、比丘尼なんど高尚の憂ひ顔にて御宥免を願ひ出づるは必定、将軍家に於いても、ただちにれ いの御慈悲とやらのお心を用ゐてかかる女性の出しやばりの歎願を御聴許なさるは、もはや疑ひも無きところ、かくては謀逆もさしたる重き犯罪にあらず、ひい ては幕府の前途も危ふからんかと推量仕つて、かくの如くその場を去らしめず天誅を加へてまゐりましたのに、お叱りとは、なあんだ、こんなふうでは今後、身 命を捨て忠節を尽す者が幕府にひとりもゐなくなります、ばかばかしいにも程がある、そもそも当将軍家は、故右大将家の質素を旨とし武備を重んじ、勇士を愛 し給ひし御気風には似もやらず、やれお花見、やれお月見、女房どもにとりまかれ、あさはかのお世辞に酔ひしれて和歌が大の御自慢とはまた笑止の沙汰、没収 の地は勲功の族に当てられず、多く以て美人に賜はる、たとへば、榛谷四郎重朝の遺跡を五条の局にたまはり、中山四郎重政の跡を以て、下総の局にたまはると は、恥づかし、恥づかし、いまにみるみる武芸は廃れ、異形の風流武者のみ氾濫し、真の勇士は全く影をひそめる事必至なり、御気色を蒙り、出仕をさしとめら れて、かへつて心がせいせい致しました、と日頃の鬱憤をここぞと口汚く吐きちらし、肩をゆすつて御退出なさいましたさうで、お部屋が離れてゐるとはいへ、 たいへんな蛮声でございましたから、将軍家のお耳元にも響かぬ筈はなく、お傍の私たちはひとしく座にゐたたまらぬ思ひではらはら致して居りましたが、さす がに将軍家の御度量は非凡でございました。
武将ハ、アレデヨイノデス。
 とまじめなお顔でおつしやつて、さうして何事もなかつたやうに静かに御酒盃をおふくみになられました。その後まもなく、宗政さまの御出仕をもお許しに相 成りましたが、けれども、将軍家に於いては以前と少しも変らず、やつぱり和歌管絃に御耽溺なされ、宗政さまの身命を賭しての罵言も、一向にお気にとめてい らつしやらない御様子で、ただ、御朝廷と神仏に関する事になると、にはかに別人の如く凜乎たる御態度をお示しになり、それからもう一つ、あの、さみだれの 降る日に、つぎつぎと討たれて消えた和田氏御一族郎党の事は、さめても寝ても、瞬時もお心から離れなかつたらしく、そのとしの十二月三日には、たうとう将 軍家御自身で寿福寺へお参りになり、故左衛門尉義盛さまをはじめその御一族郎党の御冥福をお祈りになつたほどでございました。

建保二年甲戌。二月大。一日、丙申、晴、亥刻地震。四日、己亥、晴、将軍家聊か御病悩、諸人奔走す、但し殊なる御事無し、是若し去夜御淵酔の余気か、爰に 葉上僧正御加持に候するの処、此事を聞き、良薬と称して、本寺より茶一盞を召進ず、而して一巻の書を相副へ、之を献ぜしむ、茶徳を誉むる所の書なり、将軍 家御感悦に及ぶと云々。七日、壬寅、晴、寅剋大地震。十四日、己酉、霽、将軍家烟霞の興を催され、杜戸浦に出でしめ給ふ、漸く黄昏に及びて、明月の光を待 ち、孤舟に棹して、由比浜より還御と云々。
同年。三月小。九日、甲辰、晴、晩に及びて、将軍家俄かに永福寺に御出、桜花を御覧ぜんが為なり。
同年。四月大。三日、丁酉、晴、亥剋大地震。
同年。六月大。三日、丙申、霽、諸国炎旱を愁ふ、仍つて将軍家、祈雨の為に八戒を保ち、法花経を転読し給ふ。五日、戊戌、甘雨降る、是偏に将軍家御懇祈の 致す所か。十三日、丙午、関東の諸御領の乃貢の事、来秋より三分の二を免ぜらる可し、仮令ば毎年一所づつ、次第に巡儀たる可きの由、仰出さると云々。
同年。八月小。七日、己亥、甚雨洪水。廿九日、辛酉、陰、去る十六日、仙洞秋十首の歌合、二条中将雅経朝臣写し進ず、将軍家殊に之を賞翫せしめ給ふと云々。
同年。九月大。廿二日、癸未、霽、丑剋大地震。
同年。十月小。六日、丁酉、晴、亥剋大地震。十日、辛丑、霽、申刻甚雨雷鳴。
同年。十一月大。廿五日、乙酉、晴、六波羅の飛脚到著して申して云ふ、和田左衛門尉義盛、大学助義清等の余類洛陽に住し、故金吾将軍家の御息を以て大将軍 と為し、叛逆を巧むの由、其聞有るに依りて、去る十三日、前大膳大夫の在京の家人等、件の旅亭を襲ふの処、禅師忽ち自殺す、伴党又逃亡すと云々。
同年。十二月大。四日、甲午、晴、亥剋、由比浜辺焼亡す、南風烈しきの間、若宮大路数町に及ぶ、其中間の人家皆以て災す。
建保三年乙亥。正月小。八日、戊辰、霽、伊豆国の飛御参ず、申して云ふ、去る六日、戌剋、入道遠江守時政、北条郡に於て卒去す、日来腫物を煩ひ給ふと云々。十一日、辛未、晴、若宮辻の人家焼亡す、酉戌両時の間、廿余町悉く灰燼と為る。
同年。二月大。廿四日、癸丑、晴、戌刻、雷電数声。
同年。三月大。五日、甲子、快霽、将軍家、花を覧んが為、三浦の横須賀に御出。廿日、己卯、今日仰下されて云ふ、京進の貢馬のことは、其役人面々に、逸物三疋を以て、兼日用意せしめ、見参に入る可し、選び定むることは、御計ひ有る可きなりと云々。
同年。六月小。廿日、戊寅、今夜子剋、御霊社鳴動す、両三度に及ぶと云々。
同年。七月大。六日、癸巳、晴、坊門黄門、去る六月二日仙洞歌合の一巻を将軍家に進ぜらる、是内々の勅諚に依りてなりと云々。
同年。八月小。十八日、乙巳、甚雨、午剋大風、鶴岳[#「鶴岳」は底本では「鶴岡」]八幡宮の鳥居顛倒す。十九日、丙午、陰、地震矣。廿一日、戊申、晴、巳剋、鷺、御所の西侍の上に集る、未剋地震と云々。廿二日、己酉、霽、地震、鷺の怪の事、御占を行はるるの処、重変の由之を申す、仍つて御所を去つて、相州の御亭に入御、亭主は他所に移らると云々。
同年。九月小。六日、壬戌、晴、丑刻大地震。八日、甲子、陰、寅刻大地震。十一日、丁卯、晴、寅刻大地震、未剋又少し動ず。十三日、己巳、晴、未剋地震。 十四日、庚午、晴、酉剋地震、戌剋地震、同時に雷鳴す。十六日、壬申、晴、卯剋地震。十七日、癸酉、晴、戌剋三度地震。廿一日、丁丑、晴、連々の地震に依 りて、御祈を行はる。廿六日、壬午、亥刻、雷鳴数声、降雹の大なること李子の如し。
同年。十月大。二日、丁亥、晴、寅刻地震。
同年。十一月小。八日、癸亥、快晴、将軍家相州御亭より御所に還御、鷺の怪に依りて、御旅宿已に七十五日を経訖んぬ。廿五日、庚辰、幕府に於て、俄かに仏事を行はしめ給ふ、導師は行勇律師と云々、是将軍家去夜御夢想有り、義盛已下の亡卒御前に群参すと云々。
同年。十二月大。十五日、己亥、晴、亥刻地震。十六日、庚子、霽、終日風烈し、連々の天変等の事、将軍家殊に御謹慎有る可きの変なりと云々。
建保四年丙子。正月小。十七日、辛未、霽、将軍家の御持仏堂の御本尊、運慶造り奉り、京都より渡し奉らる、開眼供養の事有る可し、信濃守行光奉行として其沙汰有り。廿八日、壬午、晴、姶めて御本尊を御持仏堂に安置す、即ち供養の儀有り。
同年。三月大。七日、庚申、海水色を変ず、赤きこと紅を浸せるが如しと云々。廿五日、戊※(「刀」の「ノ」が横向き、第3水準1-14-58)、御台所厳閤の薨去に依りて、信濃守行光の山庄に渡御、密儀なりと云々。
同年。四月小。九日、壬辰、常の御所の南面に於て、終日諸人の愁訴を聴断し給ふ、各藤の御壺に候して、子細を言上す。
同年。五月大。廿四日、丙子、将軍家山内辺を歴覧せしめ給ふ、期せざるの間、諸人追つて馳せ参ると云々。
同年。六月大。八日、庚※(「刀」の「ノ」が横向き、第3水準1-14-58)、 晴、陳和卿参著す、是東大寺の大仏を造れる宋人なり、彼寺供養の日、右大将家結縁し給ふの次に、対面を遂げらる可きの由、頻りに以て命ぜらると雖も、和卿 云ふ、貴客は多く人命を断たしめ給ふの間、罪業惟重し、値遇し奉ること其憚有りと云々、仍つて遂に謁し申さず、而るに当将軍家に於ては、権化の再誕なり、 恩顔を拝せんが為に参上を企つるの由、之を申す、即ち筑後左衛門尉朝重の宅を点ぜられ、和卿の旅宿と為す、先づ広元朝臣をして子細を問はしめ給ふ。十五 日、丁酉、晴、和卿を御所に召して、御対面有り、和卿三反拝し奉り、頗る涕泣す、将軍家其礼を憚り給ふの処、和卿申して云ふ、貴客は、昔宋朝医王山の長老 たり、時に吾其門弟に列すと云々、此事、去る建暦元年六月三日丑剋、将軍家御寝の際、高僧一人御夢の中に入りて、此趣を告げ奉る、而して御夢想の事、敢て 以て御詞を出されざるの処、六ヶ年に及びて、忽ち以て和卿の申状に符合す、仍つて御信仰の外他事無しと云々。
同年。閏六月小。十四日、丙寅、広元朝臣、今月一日大江姓に遷り訖んぬ。
同年。九月小。十八日、戊戌、相州広元朝臣を招請して仰せられて云ふ、将軍家大将に任ずる事、内々思食し立つと云々、右大将家は、官位の事宣下の毎度、之 を固辞し給ふ、是佳運を後胤に及ばしめ給はんが為なり、而るに今御年齢未だ成立に満たず、壮年にして御昇進、太だ以て早速なり、御家人等亦京都に候せずし て、面々に顕要の官班に補任すること、頗る過分と謂ひつ可きか、尤も歎息する所なり、下官愚昧短慮を以て、縦ひ傾け申すと雖も、還つて其責を蒙る可し、貴 殿盍ぞ之を申されざる哉と云々、広元朝臣答申して云ふ、日来此の事を思ひて、丹府を悩ますと雖も、右大将家の御時は、事に於て下問有り、当時は其儀無きの 間、独り腸を断つて、微言を出すに及ばす、今密談に預ること、尤も以て大幸たり、凡そ本文の訓する所、臣は己を量りて職を受くと云々、今先君の遺跡を継ぎ 給ふ計なり、当代に於ては、指せる勲功無し、而るに啻に諸国を管領し給ふのみに匪ず、中納言中将に昇り給ふ、摂関の御息子に非ずば、凡人に於ては、此儀有 る可からず、争か嬰害積殃の両篇を遁れ給はんか、早く御使として、愚存の趣を申し試む可しと云々。廿日、己亥、晴、広元朝臣御所に参じ、相州の中使と称し て、御昇進の間の事、諷諫し申す、須らく御子孫の繁栄を乞願はしめ給ふ可くば、御当官等を辞し、只征夷将軍として漸く御高年に及びて、大将を兼ねしめ給ふ 可きかと云々、仰せて云ふ、諫諍の趣、尤も甘心すと雖も、源氏の正統此時に縮まり畢んぬ、子孫敢て之を相継ぐ可からず、然らば飽くまで官職を帯し、家名を 挙げんと欲すと云々、広元朝臣重ねて是非を申す能はず、即ち退出して、此由を相州に申さると云々。
同年。十月大。五日、甲※(「刀」の「ノ」が横向き、第3水準1-14-58)、将軍家、諸人の庭中に言上する事を聞かしめ給ふ。
同年。十一月小。廿四日、癸卯、晴、将軍家先生の御住所医王山を拝し給はんが為、渡唐せしめ給ふ可きの由、思食し立つに依りて、唐船を修造す可きの由、宋 人和卿に仰す、又扈従の人六十余輩を定めらる、朝光之を奉行す、相州、奥州頻りに以て之を諫め申さると雖も、御許容に能はず、造船の沙汰に及ぶと云々。
同年。十二月大。一日、己酉、諸人の愁訴相積るの由、聞食すに依りて、年内に是非せしむ可きの旨、奉行人等に仰せらると云々。
 御耽溺とは申しても、下衆の者たちのやうに正体を失ふほどに酔ひつぶれ、奇妙な事ばかり大声でわめきちらし、婦女子をとらへてどうかうといふやうな、あ んなものかとお思ひになると、とんでもない間違ひでございまして、将軍家に於いては、その頃お酒の量が多くなつたとは申しながら、いつも微醺の程度で、そ れ以上に乱酔なさるやうな事は決して無く、お膝さへお崩しにならず、さうして、女房たちを召集めておからかひになるとは言つても、ただ御上品の御冗談をお つしやつて一座を陽気に笑はせるといふくらゐのもので、あさましい御享楽をなさつて居られたわけでもないのでございますが、いやしくも征夷大将軍、武門の 総本家のお方が、武芸を怠り和歌にのみ熱中し、わけもない御酒宴をおひらきになり婦女子にたはむれていらつしやる時には、御身分が御身分でもあり、ひどく 目立つ事でもございますから、やつぱり御耽溺と申し上げなければならぬやうな結果になり、私たちお傍の者も、終始変らず将軍家を御信頼申し、お慕ひ申して ゐながら、それでも、時たま、ふいと何とも知れず心細くなる事がございました。あくる建保二年のお正月には、れいの二所詣に御進発になり、私たちもお供を 致しましたが、二月三日には、御一行無事に鎌倉へ御帰着に相成り、その夜は、お供の者のこらず御ところに参候して御盃酒を賜り、たいへん結構の御馳走ばか りつぎつぎと出て、夜の更けるにつれて飲めや歌への大騒ぎになり、将軍家も、夜明け近くまで皆におつき合ひ下され、その時ばかりは、さすがに御正座も困難 に見受けられたほどにいたくお酔ひの御様子でございました。さうして、その翌る日は、お床におつきになられたきりで、ひどくお苦しみの御模様に拝され、大 勢の御家人たちが続々とお見舞ひに駈けつけて、御ところにただならぬ不安の気がただよひ、けれどもその折ちやうど御加持に伺候して居られた葉上僧正さま が、その御容態の御宿酔に過ぎざる事を見てとり、お寺から或る種の名薬を取りよせて一盞献じましたところが、たちまち御悩も薄らぎ、僧正さまは頗る面目を ほどこしましたが、その名薬といふのは、ただのお茶でございましたさうで、もつともその頃は、鎌倉に於いてお茶といふものは未だほとんど用ゐられてゐなか つたし、全く、珍らしかつた時代でございまして、僧正さまは、その場に於いて、その名薬のお茶である事をお明し申し、お茶の徳をほめたたへるところの書一 巻をついでに献上なさいました。それは、僧正さまが御坐禅の余暇に御自身でお書きになつた御本だとか、めづらしい本をお書きになつたものだと、けげんさう にお首を傾けて居られたお方もございました。この葉上僧正栄西さまは、御承知のとほり、天平のころからの二大宗教、すなはち伝教大師このかたの天台宗と弘 法大師を御祖師とする真言宗と、この二つが、だんだんと御開祖のお気持から離れて御加持御祈祷専門の俗宗になつてしまつたのにあきたらず思召され、再度の 御渡宋より御帰朝以来、達磨宗すなはち禅宗といふ新宗派を御開立しようとなされて諸方を奔走し、一方、黒谷の御上人が念仏宗すなはち浄土宗を称へられたの もその頃の事でございましたが、両宗派ともそれぞれ上下の信仰を得て、たうとう南都北嶺の嫉視を招き、共にさまざまの迫害を受けられたやうでございまし て、栄西さまは、鎌倉へのがれてまゐり、寿福寺を御草創なされ、建保三年六月に痢病でおなくなりなさるまで、ほとんどそこに居られまして、往年に新宗派を 称へ、新智識を以て片端から論敵を説破なされた御元気は、その御晩年には、片鱗だも見受けられず、さらに大きくお悟りになつたところでもあつたのでござい ませうか、別段、御宗派にこだはるやうなところも無く、御加持御祈祷もすすんでなさいましたし、おひまの折には、お茶のお徳をほめたたへる御本などと、珍 奇なものまでお書きあらはしになるくらゐでございましたから、私たちの眼には、ただおずるいやうな飄逸の僧正さまとしか見えませんでした。さて、将軍家に 於いては、僧正さまの所謂お茶のお徳によつて、御病気がおなほりになると、すぐに、れいの風流武士の面々を召集めて、お船遊びやらお花見やらにおでかけに なり、たまには、おひとりでこつそり御ところを脱け出し裏山などにおいでになつて、あとで大騒ぎをしてお捜し申す事もございましたほどで、この建保二年か ら三年にかけて、ほとんど連日の大地震、それに火事やら、大風やら、或いは旱魃に悩むかと思ふと、こんどは大雨洪水、また実に物凄い雷鳴もしばしばござい まして、天体に於いてさへ日蝕、月蝕の異変があり、関東の人心恟々たるもので、それにつけても将軍家のそのやうな御風流の御遊興は非難せられ、この天変地 異は、すべて将軍家御謹慎有るべしとの神々のお告げなりと御占ひを立てるものさへ出てまゐりまして、或いはまた、御ところのお屋根におびただしい鷺の群が 降り立つたのを見て、これただ事に非ず、御ところに重変起るの兆なりといふおそろしい予言をする者もございまして、その時には、将軍家は相州さまにすすめ られて御ところをのがれ、相州さまのお宅にお移りになり、それから七十五日間も相州さまのお宅で窮屈な御暮しをなさつたのでございましたが、重変も何も起 りませんでしたので、また御ところへお帰りになつたなどといふ、何がなんだか、わけのわからぬ騒ぎもございましたほどで、これといふのも、すべて、将軍家 の御趣味に御惑溺の御日常が、ひどく皆の目ざはりになつてゐるせゐではなからうかとお傍の私たちにも思はれました。けれども、呆けてお遊びになつてゐるや うでも、やはり、将軍家のお力でなければ、どうしても出来ない事もございまして、建保二年の五月から六月にかけての大旱魃の折には、鶴岳宮に於いて諸僧が 大勢で連日雨乞の御祈を致しましたが、わづかに白雲が流れて幽かな遠雷が聞えただけで、一滴の雨も降りませんでしたのに、六月三日、将軍家が御精進御潔斎 なされて法華経を一心に読誦いたしましたところが、翌朝から、しとしとと慈雨が降りはじめまして、むかし皇極女帝の御時、天下炎旱に悩み、諸方に於いて雨 乞の祈祷があつたけれども何の験も無きゆゑ、時の大臣、蘇我蝦夷みづから香炉を捧げて祈念いたしましたさうで、それでも空はからりと晴れ渡つたままで、一 片の白雲もあらはれず、蝦夷は大いに恥ぢて、至尊に御祈念下されるやうお願ひ申しましたので、すなはち玉歩を河辺に運ばせられ、四方を御拝なされるや、た ちまち雷電、沛然と大雨あり、ために国土の百穀豊稔に帰したとか、一臣下たる将軍家の事などは、もちろんその尊い御治蹟とは較べものにも何も、もつたいな くて出来るものでございませぬが、純正無染の心で祈願いたしたならば必ずや天に通ずるものがあるらしく、それは不徳の僧侶や蝦夷大臣などには出来ぬ道理 で、風流の御遊興に身をやつして居られても、やはり将軍家には高い御品性がそなはつていらつしやるのだらうと、急に御評判がよろしくなつて、同じ月の十三 日には、将軍家がその頃の頻々たる天変地異に依る関東一帯の不作をお見越しなされて、年貢の減免を仰出され、いよいよ御高徳を讃嘆せられ、また、時々は、 ふいと思ひ出されたやうに前庭に面してお出ましなされ、さまざまの下民の直訴に、終日、黙々とお耳を傾けて居られる事などもございましたけれども、しか し、すぐにまたお遊びの御計画をおはじめになり、もとはお口の重いお方でございましたのに、やや御多弁になられたやうでもあり、お顔も以前にくらべてすこ しお若くなつたやうにさへ見受けられました。いつかお傍の者が、このごろめつきりお太りになられたやうに拝せられますが、と申し上げたら、
男ハ苦悩ニヨツテ太リマス。ヤツレルノハ、女性ノ苦悩デス。
 と御冗談めかしておつしやいましたけれども、或いは、御陽気に見えながらその御胸中には深い御憂悶を人知れず蔵して居られたのでもございませうか、その辺の事は私どもには推量も及ばぬところでございまして、
ナンニモ、スルコトガナイ。
 と幽かにお笑ひになつておつしやつて居られた事もございますし、また、
政所、侍所ナドト等シク、都所トイフモノヲ設ケタラドウカ。ソノ都所ノ別当ニダケハ、ナツテモヨイ。
 とお酒のお席で誰にともなくおつしやつて、おひとりで大笑ひなさつて居られた事もございました。派手な京風ばかりを真似るゆゑ、都所別当が御適任といふ 御自身をおからかひの意味でおつしやつたのかも知れませぬが、私たちの日常拝しましたところでは、決してそんな事だけではなく、別のもつと厳粛な意味に於 いても、その都所別当が首肯できる気持でございました。まことに、当時、御朝廷との御交通は、ただこの御方おひとりに依つてのみなされてゐたやうな御有様 でございまして、建保三年の七月には、おそれおほくも仙洞御所より内々の御勅諚に依つて、仙洞歌合一巻が将軍家に下し送られ、将軍家もまた、そのとしに は、京都の御所へ御進上仕るべき名馬の撰定に当つて、お役人の面々に、それぞれ逸物三匹づつを用意せしめ、御自身いやしき伯楽の如くお手づから馬の口の中 まで綿密にお調べになつたくらゐで、建保五年の七月から八月にかけての仙洞御所の御悩の折には、すぐさまお見舞ひの使節を上洛せしめ、荒駒三百三十頭を献 上いたし、また御修法を仰出され院の御悩御平癒を祈念なされるなど、その御朝廷に対し奉る恭順の御態度は、万民の手本とも申し上げたいほどで、鎌倉に御下 向の御勅使をおもてなしなさるに当つても、誠心敬意を表し、莫大の贈物を捧げ、ひたすら忠君の御赤心を披露なされ、かの御母君尼御台所さまが、建保六年に 二度目の熊野詣をなさつてそのついでに京都にもお立寄りになり、しばらく京に御滞在中、院の特別のお思召しにより尼御台さまを従三位に叙せしむべき由の宣 下がその御旅亭に達し、さらに、かしこくも仙洞御所御直々の御対面をも賜ふべき由仰下され、その破格の御朝恩に感泣いたすべきところを尼御台さまは、田舎 の薄汚い老尼でございます、竜顔に咫尺し奉るなど、とんでもない、どうかその儀はおゆるし下されと申して、京都の諸寺参拝のおつもりも何も打棄て、即時に 鎌倉さして御発足になつたとか、そのやうな依怙地な不敬の御態度などに較べると、実の御母子でありながら、まさに雲泥の差がございまして、院も、このお若 い将軍家の一途に素直な忠誠の念をおいつくしみ下され、官位の陞叙もすみやかに、建仁三年九月七日叙従五位下、任征夷大将軍、同十月二十四日任右兵衛佐、 元久元年正月七日叙従五位上、三月六日任右近少将、同二年正月五日正五下、同二十九日任右中将、兼加賀介、建永元年二月二十二日叙従四下、承元々年正月五 日従四上、同二年十二月九日正四下、同三年四月十日叙従三位、五月二十六日更任右中将、建暦元年正月五日正三位、同二年十二月十日従二位、建保元年二月二 十七日正二位、このころから将軍家に於いても官位の御昇進を無邪気にお楽しみなされて除書をお待兼ねのあまり京都へ御催促なされる事さへございまして、同 じく建保四年の六月二十日には、わづか御二十五歳のお若さを以て権中納言に任ぜられ、七月二十日には左近中将を兼ね、同六年正月十三日には任権大納言、三 月六日にいたつて左近大将、十月九日、内大臣、十二月二日、右大臣。然して、左近大将の時、ならびに右大臣の時にはその拝賀の御儀式に用ゐるべき御装束御 車以下さまざまの御調度一切、仙洞御所より鎌倉へ送り下され、その御寵恩のほどはまことに量り知るべからざるもので、下司無礼の輩は之に就いてもまた、け しからぬ取沙汰を行ひ、院に於かせられては将軍家を官打ちに致される御所存ではなかつたらうか、と愚かしき疑ひなどをさしはさみまして、御承知でもござい ませうが、もともとそれに価せぬ身分のものが、にはかに高位高官に昇ると、その官位に負けて命を失ふとも言はれて居りますから、憎むべき者の官位を急速に 進めてその一命を奪はんと図る事を官打ちと申しますのださうで、その官打ちの御所存ではなかつたらうかといふつまらぬ疑ひを抱いて心配顔をしてゐた人も無 いわけではなかつたのでございまして、けれどもそれは、仙洞御所と将軍家との間に於いて、つねに天真爛漫の麗はしい君臣の情が交流してゐたといふ事実をご 存じないからであつて、共にすぐれた御歌人ではあり、承久元年の正月に将軍家があのやうな御最期を遂げられ、院におかれては内蔵頭忠綱さまを御使として鎌 倉へ御差遣に相成り、御叡慮殊のほか御歎息の由を申伝へしめあそばしましたさうで、しかも将軍家がおなくなりになると直ちに、あの不吉の兵乱がはじまりま したところから考へても、将軍家が御風流にのみ身をおやつしになつて居られるやうに見えながら、つねに御朝廷と幕府の間に立つて、いかにお心をくだかれて 居られたか、真に都所の大別当であらせられたといふ事が、更にはつきりとわかつて来るやうな気が致します。けれども、当時、将軍家に対する御ところ内外の 誤解は甚しく、建保四年の九月に、広元入道さまは、しさいらしく将軍家に御諫言を試み、かへつて大いに恥をおかきになつたなどといふ事もございました。九 月十八日に、相州さまがそのお宅に広元入道さまをこつそりお招きになり、どうも困りました、いや将軍家の事ですが、和歌管絃の御風流にも、もういい加減厭 きて来たと見えて、このごろはまた、官位の御陞進に御熱中で、しばしば京都へ除書の御催促さへなさいますやうで、実にどうも、みつともなく、あれでは京都 の御所のお方たちも呆れてゐるでせう、幕府の威信を保つ上からも、面白くない事です、故右大将家はさすがに御聡明で官位の宣下のある度毎に固く御辞退申上 げたもので、これはここだけの話ですが、正二位も大納言も、幕府の私どもにはいそいで頂戴の必要もなく、名よりは実ですから、征夷大将軍一つでたくさんな 筈なのに、どういふものですか、当代は、むやみに京都をお慕ひになつて、以前はこれほどでも無かつたのですが、京都の御所の事となると何でもかでも有難く てたまらない様子で、こんな工合では必ず御所のお方たちに足もとを見すかされ、結局、幕府があなどられ、たいへんな事になります、どうもこのたびの御道楽 は、たちが悪い、私から将軍家に申し上げてもいいのですが、どうも私は口不調法の短気者と来てゐるので、まづい事を言つて、ただ将軍家を怒らせてしまつて もつまらないし、ここは一つ、あなたのれいの上品な遠廻しの御弁舌におたよりしたいところのやうです、とにこりともせず、広元入道さまのお顔を射るやうに まつすぐに見つめながら申しまして、入道さまは狼狽の気味、いや恐縮です、とおつしやつて二つ三つ空咳をなさつて、その事に就いては、と大袈裟に膝をすす め、私も日頃ひとしれず悩んでゐない訳ではございませんでした、とやつぱり煮え切らないやうな言ひ方で、まことに之は困つたやうな事でございまして、故右 大将家に於いては、いやしくも京都に関する事ならば、この京育ちの私にいちいち御下問がございまして、私も及ばずながら何かと愚見を開陳いたしたものでご ざいましたが、当代に於いては、さつぱり私に御下問なさいません、さうして御自分のお考へだけでどしどし京と御交通なさいますので、私は、ただお傍ではら はらして拝見してゐるばかりでございましたところへ持つて来て、今日のあなたのお言葉、いや有難う存じました、よろしうございます、必ずおいさめ申しませ う、ただし之は、とふいとお声を落して、お首を傾け、どうしたものでございませう、あなたの御使として御諫言申し上げた方が、ききめもよろしいかと存ぜら れますが、とれいの御責任をおのがれになる御工夫、相州さまは、平気でうなづき、ここに御密談がまとまつたやうな次第で、もちろん之は私が、のちにいろい ろの人から聞いて、たぶんかうでもあつたらうかと思はれるままにお話申し上げたのでございますから、その辺はよろしく御斟酌の程をお願ひ申し上げます。さ て、その翌々日、入道さまは相州さまからの御使として御前に参り、いたづらに官位をお望みなさる事のよろしからざる理由を、なかなか美事に御申述べに相成 りました。日頃あいまいの言ひ方ばかりしていらつしやる入道さまには似合はず、堂々たる御言論で、まづ故右大将家が、あれほどの大功をお立てになりながら も佳運を子孫に残さうといふ思召しからその御一代に於いては官位を望まず、ただ征夷大将軍たるを以て満足して居られたといふ事から説き起し、当代に於いて は、さしたる勲功も無くして既に中納言中将に昇り給ふ、かかる事例は摂関の御子息の場合に於いてのみ見受けられる事で、それ以外の者には許されるものでは ないのでございます、このやうな無理をあくまでも押して行きましたならば、或いは、わざはひその身に及ぶかも知れない、もし御子孫の余栄を願ふおつもりが あつたならば、須らく御当官を辞し、御父君の如くただ征夷大将軍を以て足れりとなし、漸く御高年に及びて然るべき官位を拝受なされたはうがよろしいかと存 じます、と淀みなく巧みに諷諫申しましたけれども、将軍家は爽やかに御微笑なされ、
官位ヲ望ンデワルイ理由ハ他ニモアラウ。子孫ノタメトハ唐突デス。子孫ハ、ドコニモ居リマセヌ。
 とれいの御冗談めかしておつしやいましたので、入道さまも拍子抜けがした様子で、ぼんやり将軍家のお顔を見上げて、何もおつしやらずに、やがて静かに一 礼して、そのままあつけなく御退出に相成りました。けれども、この時の将軍家の、子孫は無い、といふお言葉が、それは別段あやしむにも足らぬ事で、将軍家 にはお子さまも無いし、軽く入道さまをおからかひになつたお言葉にちがひないのでございますが、それでも、どうも奇妙に私どもの胸に悲しく響いて、めつさ うもない不吉な御予言のやうにさへ感ぜられ、すべて私たちの愚かな気の迷ひにきまつてゐるとは知りながらも、それから三年目のお正月に、あんな恐しい事が 起つてみますると、やつぱり、この時の将軍家のお言葉をも不思議の一つに数へ上げたいやうな気がしてまゐりますのでございます。渡宋の御計画を仰出された のも、このとしの事でございまして、この御計画も将軍家にとつては別に深い意味も無く、たまたまその頃、宋人の陳和卿が鎌倉へまゐつて居りまして、陳和卿 は造船も巧みとお聞及びになつて、ふいと渡宋を思ひ立つた御様子で、私ども貧しい身上の者にとつてこそ大船を作り宋に渡るといふのは、とても企て及ばぬ事 でございますが、いやしくも関東の大長者とも言はれる御身分のお方にとつては、別段、不自然の御計画ではなく、おとしのお若いうちに変つた土地を御覧にな つて来るのも、なかなか有益の事とも思はれますし、かねがね将軍家の御傾倒申上げてゐる、あの厩戸の皇子さまなどは、その六百年も前にもう、隋と御交通な さつて居られた程でございまして、また鎌倉の寿福寺の僧正さまだつて二度も宋へ行つて来られたお方ですし、無学の田舎者が、ただ遠い遠い唐天竺を夢見てゐ るのとは違つて、将軍家のやうに広く御学問なさつて居られると、渡宋もさしたる難事でないと御明察なされ、お気軽に御計画なされたのではなからうかと、私 などには思はれましたが、これがまた、幕府の御視界の狭いお方たちには、ほとんど気違ひ沙汰と思はれたらしく、実に烈しい反対がございまして、或る者は、 将軍家が北条家の圧迫に堪へかねて鎌倉からのがれて、さうしてあてもなく海上をさまよひ歩き果ては自殺でもなさる気であらうと言ひ、或る者は、宋に渡ると 見せて実は京都へ行き上皇さまの御軍勢をこの大船にお乗せ申して北条家討伐のために再び鎌倉へひきかへして来るおつもりに違ひ無いと言ふし、また或る者 は、こんな事をして幕府にむだなお金を使はせ幕府も将軍家も北条家も何もかもみんな一緒に倒れるやうに仕組んで、以て上皇さまへの最後の忠誠の置土産にな さらうといふ深いお考へがあるのかも知れないと言ひ、また或る者は、なあに、すねてゐるのさ、渡宋なんて、でたらめだよと言ひ、また、いやいや、そのやう にただ悪くばかり推量するものではない、これはやはり、かねてあこがれの宋の医王山に御参詣なさるための渡宋で、その他には何の御異図もないのだ、まこと に将軍家の御信仰の篤いこと、恐れいるばかりだ、などと妙な感懐をもらす者もありまして、その評定のうるさかつたこと、まるで、近日また鎌倉に大合戦でも 起るやうな騒ぎ方でございました。けれども、さすがに相州さま、入道さま、また尼御台さまに於いてはお考へも慎重で、同じ反対をするにしても、そのやうな 紛々たる諸説の如く浅はかな疑念を抱いて反対なさるのではなく、尼御台さまは、やつぱり生みの母御らしく、だいいちに将軍家の御健康を御案じなされて、こ の御計画はおやめになるやう仰出され、将軍家はそれにお答して、なに、永くてたつた一年で帰つて来ます、六百年もむかしの厩戸の皇子さまの頃だつて気楽に 隋と往来をしてゐたものです、御心配には及びません、と事もなげにおつしやつてお聞きいれの色は無く、また相州さま、入道さまがそろつてお諫め申し、
「たとひ一年間でも、将軍家が幕府をお留守になさるとは、先例の無い事で、おだやかでございません。」
タツタ一年ノオ留守番モデキヌヤウデハ、重臣ノ甲斐ガアリマセヌ。
「どのやうな御資格で御渡宋なさるのでございませうか。」
日本ノ旅人デス
「案内役が陳和卿では不安でございます。」
知ツテヰマス。異人ハタヨルベカラズ、就イテ少シク学ブダケデス。
 取りつくしまも無く、相州さまと入道さまは互ひにお顔を見合せて溜息をおつきになるばかりのやうでございました。将軍家も未だ二十五歳、前にも申上げた とほり、お若いうちに異国に渡り、その御見聞をおひろめになられるのは決して悪い事ではなく、たつた半歳か一箇年のお留守番は相州さまにしても入道さまに しても出来ぬといふわけはございませんし、それは京都へおいでになり一年も二年も御滞在になつて京都の御所のお方たちと共鳴なさつたりなどするよりは、幕 府にとつても安全の事ではあり、相州さまたちは、このたびの外遊の御計画は、あの官位陞進の御道楽に較べると、まだしも、たちがいいとお思ひになつてゐた やうでもございましたが、しかし、あの陳和卿といふ人物を信頼する気にはどうしてもなれなかつた御様子で、あの者が案内役をつとめるといふならば、この御 計画にはあくまでも反対しなければならぬ、といふお考へのやうに見受けられました。この陳和卿といふのは甚だ不思議な人物で、異国の人の気持といふもの は、私どもにはなかなかわかりにくいものでございますが、この人は建保四年の六月にひよつこり鎌倉へまゐりまして、当将軍家は御仏のお生れ変りでいらつし やると奇妙な事を言ひふらして歩きましたさうで、やがて将軍家のお耳にもはひり、かねて将軍家御尊崇の厩戸の皇子さまは、たしかに御神仏の御化身だつたさ うでございますし、そのやうな事からも興をお覚えになつたのでございませうか、十五日には、和卿を御ところに召して御対面に相成りました。この和卿といふ お方は、その当時こそひどく落ちぶれて居られたやうでございましたが、以前はなかなか有名な唐人だつたさうで、人の話に依りますと、その建保四年から数へ て約二十年むかし、建久六年三月、故右大将家再度の御上洛の折、東大寺の大仏殿に御参りになつて、たまたま宋朝の来客、陳和卿の噂をお聞きになり、その陳 和卿が総指揮をして鋳造したといふ盧舎那仏の修飾のさまを拝するに、まことに噂にたがはぬ天晴れの名工、ただの人間ではない、と御感なされて、重源上人を お使として、和卿をお招きになりましたところが、和卿は失礼にも、将軍多く人命を断ち、罪業深重なり、謁に及ばざる由、御返答申し上げ、故右大将家はお使 の上人からその無礼の返辞を聞き、お怒りになるどころか、いよいよ和卿に御傾倒なされた御様子で、奥州征伐の時に著け給ひし所の甲冑、ならびに鞍馬三疋金 銀など、おびただしくお贈りになられ、けれども和卿は一向にありがたがらず、甲冑は熔かして伽藍造営の釘と為し、その他のものは、領納する能はず、と申し て悉く御返却に及んだとか、これほど驕慢の陳和卿も寄る年波には勝てず、鋳造の腕もおとろへ、またことさらに孤高を衒ひ、ときどき突飛な振舞ひをして凡庸 の人間に非ざる所以を誇示したがる傾きもあり、またそのやうな人にありがちな嫉妬の情にも富んでゐた様子で、次第に周囲の者から疎んぜられ、つひには東大 寺から追放されて失意の流浪生活にはひり、建保四年六月、まるで乞食のやうな姿で鎌倉へあらはれ、往年の気概はどこへやら、あの罪業深重とやらの故右大将 家の御実子を御仏の再誕と称してその御温顔をひとめ拝したいと歎願に及んだとか、私どもには、名人気取りの職人が、威勢のいい時には客の註文も鼻であしら ひ、それもまた商策の狡狙な一手段で、故右大将家のやうにいよいよ傾倒なさるお方もあり、註文がぱつたり無くなると、もともと身振りだけの潔癖ゆゑ、たち まち愚痴つぽくなつて客に泣きつくといふ事はままある例でございますし、その時の陳和卿の言行も、すべて見え透いた卑屈な商策としか思はれませんでしたけ れども、将軍家にとつては、何せ、御仏の再誕といふ一事のために、おのづから、かの厩戸の皇子さまの御事などもお思ひ合せになられるらしく、どこやら気に なる御様子で、十五日に御ところへお召しになりましたが、陳和卿もなかなかのお人で、将軍家のお顔をひとめ仰ぎ見て、大声挙げて泣いておしまひになりまし た。異人といふものは、そんなに悲しくなくても、自由にどんどん涙を流す事が出来るものかも知れませぬが、痩せこけた醜い老爺が身悶えして泣き叫んでゐる 有様には、ただごとで無いやうな気配も感ぜられ、将軍家もこれにはお眉をひそめ、途方に暮れた御様子をなさいまして、やがて、陳和卿の泣く泣く申し上げる 事には、将軍家はその御前身に於いて宋朝医王山の長老たり、我はその時、一門弟としてお仕へ申して居りました、おなつかしう存じます。
ソレハ、夢デ見タコトガアリマス。
 将軍家は少しも驚かずに即座にお答へになりました。六年前の建暦元年六月三日丑剋、将軍家御寝の際、高僧一人御夢の中にあらはれて、汝はもと宋朝医王山の長老たり、とお告げになつたのださうで、
誰ニモ言ハズニ居リマシタガ、ソナタノ物語卜符合シテヰルトハ面白イ。
 とお首を振つて、しきりに興じて居られました。陳和卿も、これほど事が、うまく行くとは思ひまうけなかつたでございませう。それから御信任を得て、たび たび御ところに召されて宋朝の事情など御下問に預り、そのうちに将軍家は陳和卿のお話だけでは満足できなくなつた御様子で、たうとう御自身渡宋の御計画を 思ひつき、陳和卿には唐船の修造をお言ひつけになり、また正式に渡宋の案内役に任命なされ、周囲の反対も何も押切つて、そのとしの十一月二十四日には、さ らに渡宋のお供として、れいの風流武者六十余人を御指定に相成り、私などもその光栄の人数の端にさし加へられ、御指定にあづかつた風流武者の面々は、もと もと豪傑のお方ばかりでございますし、いつもの船遊びの少し大がかりのものくらゐに考へて居られたらしく、何事も将軍家を御信頼しておまかせ申し、のんき に唐の美人の話など持ち出して、早くも浮かれてゐるやうな有様で、いまはただ和卿の唐船の完成を待つばかりとなりました。将軍家も、いそいそと落ちつかぬ 御様子で、宋へ御出発前にどうしても見て置かなければならぬ御政務は、片端から精出して御覧になつて、また、いままで御決裁をお怠りになつてゐたために、 諸方の訴訟がずいぶんたまつてしまつてゐるといふ事をお聞きになつて、それも必ず年内に片づけるやうにしたいと仰せになつてお役人を督励してどしどしお片 づけに相成り、今はなんとしても渡宋せずにはやまぬといふ御意気込みのやうで、このやうに将軍家を異様にせきたてるものは、いつたい、なんであらうと私は 将軍家のその頃の日夜、そはそはと落ちつかず御いそがしさうになさつて居られるのを拝して、考へた事でございましたが、御目的は、勿諭医王山ではない、陳 和卿のいやしい心をお見抜き出来ぬ将軍家ではございませんし、何でもちやんとご存じの上で和卿をほんの一時、御利用なされてゐるだけの事に違ひないので、 行先きは宋でなくてもいいのだ、御目的は、たつた一年でも半歳でも、ただこの鎌倉の土地から遁れてみたいといふところにあるのだ、建保三年十一月の末、和 田左衛門尉義盛以下将卒の亡霊が、将軍家の御枕上に、ぞろりと群をなして立つたといふ、その翌朝、にはかに、さかんな仏事を行ひましたけれど、心ならずも その寵臣の一族を皆殺しにしてしまつた主君の御胸中は、なかなか私どもには推察できぬ程に荒涼たるものがあるのではございませんでせうか、これ必ず一つの 原因と私には思はれてならなかつたのでございます。

建保五年丁丑。三月小。十日、丁亥、晴、晩頭将軍家桜花を覧んが為、永福寺に御出、御台所御同車、先づ御礼仏、次に花林の下を逍遙し給ふ、其後大夫判官行村の宅に入御、和歌の御会有り、亥の四点に及び、月に乗じて還御。
同年。四月大。十七日、甲子、晴、宋人和卿唐船を造り畢んぬ、今日数百輩の疋夫を諸御家人より召し、彼船を由比浦に浮べんと擬す、即ち御出有り、右京兆監 臨し給ふ、信濃守行光今日の行事たり、和卿の訓説に随ひ、諸人筋力を尽して之を曳くこと、午剋より申の斜に至る、然れども、此所の為体は、唐船出入す可き の海浦に非ざるの間、浮べ出すこと能はず、仍つて還御、彼船は徒に砂頭に朽ち損ずと云々。
同年。五月大。十一日、戊子、晴、申剋、鶴岳八幡宮の別当三位僧都定暁、腫物を煩ひて入滅す。廿七日、甲辰、去る元年五月亡卒せる義盛以下の所領、神社仏寺の事、本主の例に任せて興行せしむ可きの由、今日彼の跡拝領の輩に仰せらると云々。
同年。六月小。廿日、丙※(「刀」の「ノ」が横向き、第3水準1-14-58)]、晴、阿闍梨公暁、園城寺より下著せしめ給ふ、尼御台所の仰に依りて、鶴岳別当の闕に補せらる可しと云々、此一両年、明王院僧正公胤の門弟となりて、学道の為に住寺せらるる所なり。
同年。七月大。廿四日、己亥、晴、京都の使者参著す、去る十日より上皇御瘧病、毎日発らしめ給ふ、内外の御祈祷更に其験見えずと云々。廿六日、辛丑、晴、山城大夫判官行村、使節として上洛す、院御悩の事に依りてなり。
同年。九月大。十三日、丁亥、将軍家海辺の月を御覧ぜんが為、三浦に渡御、左衛門尉義村殊に結構すと云々。卅日、甲辰、永福寺に始めて舎利会を行はる、尼御台所、将軍家並びに御台所御出、法会の次第、舞楽已下美を尽し、善を尽す。
同年。十月大。十一日、乙卯、晴、阿闍梨公暁鶴岳別当職に補せらるるの後、始めて神拝有り、又宿願に依りて、今日以後一千日、宮寺に参籠せしめ給ふ可しと云々。
建保六年戊寅。二月小。四日、丙午、快霽、尼御台所御上洛。
同年。四月小。二十九日、庚午、晴、申剋、尼御台所御還向、去る十四日、従三位に叙せしむる可きの由宣下、上卿三条中納言即ち清範朝臣を以て、件の位記を 三品の御亭に下さる、同十五日、仙洞より御対面有る可きの由仰下さると雖も、辺鄙の老尼竜顔に咫尺すること其益無し、然る可からざるの旨之を申され、諸寺 礼仏の志を抛ち、即時下向し給ふと云々。
同年。六月小。廿日、庚申、霽、内蔵頭忠綱朝臣勅使として下向す、先づ御車二両、已下御拝賀料の調度等、之を舁かしむ、疋夫数十人歩列す。廿一日、辛酉、 晴、午剋、忠綱朝臣件の御調度等を御所に運ばしむ、御車二両、九錫彫の弓、御装束、御随身の装束、移鞍等なり、是皆仙洞より調へ下さると云々、将軍家、忠 綱朝臣を簾中に召して御対面有り、慇懃の朝恩、殊に賀し申さると云々、凡そ此御拝賀の事に依りて、参向の人已に以て数輩なり、皆御家人等に仰せて、毎日の 経営、贈物、花美を尽す、是併しながら、庶民の費に非ざる莫し。廿七日、丁卯、晴、陰、将軍家大将に任ぜられ給ふの間、御拝賀の為、鶴岳宮に参り給ふ、早 旦行村の奉として、御拝賀有る可きの由を、下向の雲客等に触れ申す、申の斜に其儀有り。
同年。七月大。八日、丁丑、晴、左大将家御直衣始なり、仍つて鶴岳宮に御参、午剋出御、前駆並びに随兵已下、去月廿七日の供奉人を用ゐらる。
同年。八月大。十五日、癸丑、晴、鶴岳放生会、将軍家御参宮、供奉人の行粧、花美例に越ゆ、檳榔の御車を用ゐらる。十六日、甲寅、晴、将軍家御出昨の如し、流鏑馬殊に之を結構せらる。
同年。九月小。十三日、辛巳、天晴陰、酉刻快霽、明月の夜、御所にて和歌の御会なり。
同年。十月大。廿六日、乙丑、晴、京都の使者参ず、去る十三日、禅定三品政子従二位に叙せしめ給ふと云々。
同年。十二月小。五日、癸卯、霽、鶴岳の別当公暁、宮寺に参籠して、更に退出せられず、数ヶの祈請を致され、都て以て除髪の儀無し、人之を恠しむ、又白河 左衛門尉義典を以て、大神宮に奉幣せんが為、進発せしむ、其外諸社に使節を立てらるるの由、今日御所中に披露すと云々。廿日、戊午、晴、去る二日、将軍家 右大臣に任ぜしめ給ふ。廿一日、己未、晴、将軍家大臣拝賀の為に、明年正月鶴岳宮に御参有る可きに依つて、御装束御車已下の調度等、又仙洞より之を下さ れ、今日到著す、又扈従の上達部坊門亜相已下参向せらる可しと云々。
 公暁禅師さまは、その翌年の建保五年六月に京都よりお帰りになり、尼御台さまのお計ひに依つて鶴岳宮の別当に任ぜられました。前の別当職、定暁僧都さま はそのとしの五月に御腫物をわづらひ、既におなくなりになつてゐたのでございます。公暁禅師さまは、それまで数年、京都に於いて御学問をなさつて居られた のでございますが、あまり永く京都などに置くと、また謀叛の輩に擁立せられたりなどして栄実禅師さまの二の舞ひの、不幸な最期をとげられるやうな事が起ら ないとも限らぬといふ尼御台さまの御孫いとしのお心から、お使をつかはして、公暁禅師さまをむりやり鎌倉へ連れ帰らしめ、鶴岳宮の別当職に補せられたの が、あの、関東はおろか、京、西国、日本中を震撼させた凶事のもとになつたのでございます。その六月の末に、公暁禅師さまは御ところへも御挨拶にお見えに なりましたが、もはやその時は十八歳、筋骨たくましい御立派な若者になつて居られました。身の丈も将軍家よりは、はるかにお高く、花やかなお顔立ちで色も 白く、まことに源家嫡流の御若君に恥ぢぬ御容儀と拝されましたが、けれども、御幼少の頃からのあの卑しく含羞むやうな、めめしい笑顔はもとのままで、どこ やら御軽薄でたより無く、赤すぎるお口元にも、またお眼の光にも、不潔なみだらなものさへ感ぜられ、将軍家の純一なおつとりした御態度に較べると、やつぱ り天性のお位に於いて格段の相違があるやうに私たちには見受けられました。その日も禅師さまは、御奥の人たち皆に、みつともないほどの叮嚀なお辞儀をなさ れて、さうして将軍家に対してはさらに見るに忍びぬくらゐの過度のおあいそ笑ひをお頬に浮べて御挨拶を申し、将軍家はただ黙つて首肯いて居られまして、京 から下著の人にはたいてい京の御話を御所望なされ、それが将軍家の何よりのお楽しみの御様子でございましたのに、この時、公暁禅師さまにはなんのお尋ねも なく、そのうへ少しお顔色がお曇りになつて居られるやうにさへ拝されました。ふいとそのとき思ひましたのでございますが、将軍家は、この卑しいつくり笑ひ をなさる禅師さまをひどくお嫌ひなのではなからうか、滅多に人を毛嫌ひなさらず、どんな人をも一様においつくしみなされてまゐりました将軍家が、この公暁 禅師さまの事になると奇妙に御不快の色をお示しになり、六年前に、禅師さまが御落飾の御挨拶にお見えになつた時にも、将軍家は終始鬱々として居られたし、 それから後も御前に於いてこの禅師さまのお噂が出ると急に座をお立ちになつたり、何かお心にこだはる事でもございますやうな御様子で、その日も禅師さま が、おどおどして、きまりわるげなお態度をなさればなさるほど、いよいよ将軍家のお顔色は暗く、不機嫌におなりのやうに拝されましたので、これはひよつと したら将軍家はこの禅師さまをかねがね、あきたらず思召しなされて居られるのではなからうかと、私も当時二十一歳にもなつて居りまして、まあ身のほど知ら ずの生意気なとしごろでもございますから、そのやうな推参な事まで考へたやうな次第でございました。その日、禅師さまが御退出なされて後も、将軍家はしば らくそのまま黙つてお坐りになつて居られましたが、ふいとお傍の私たちのはうを振りかへられ、あれには仲間も無くて淋しからう、これから時折、僧院へお話 相手に伺ふがよい、と仰せられ、そのお言葉を待つまでも無く、私にはあのお若い禅師さまの兢々たる御遠慮の御様子がおいたはしく、そのお身の上にも御同情 禁じがたく、いつかゆつくりお話相手にでもお伺ひしたいものと考へてゐた矢先でございましたので、それから十日ほど経つて七月のはじめ、御ところの非番の 日に、鶴岳宮の僧院へ、何か義憤に似た気持さへ抱いてお伺ひ申し上げたのでございます。昼のうちは御読経、御戒行でおひまもございませぬ由、かねて聞き及 んで居りましたので、夜分にお訪ね申しましたが、禅師さまは少しも高ぶるところの無い、いかにも磊落の御応接振りをお示し下され、部屋の中は暑い、海岸に 出て見ませうと私をうながして、外へ出ました。月も星も無く、まことに暗い夜でございました。禅師さまは、何もおつしやらずにどんどんさきにお歩きにな り、そのお早いこと、私はほとんど走るやうにしておあとについてまゐりました。由比浦には人影も無く、ただあの、ことしの四月以来なぎさに打ち拾てられた ままになつてゐる唐船の巨大な姿のみ、不気味な魔物の影のやうに真黒くのつそりと聳え立つてゐるだけで、申しおくれましたがこの唐船は、れいの陳和卿の設 計に依り、そのとしの四月には出来上つて、十七日これを海に浮べんとして、午の剋から数百人の人夫が和卿の采配に従ひ、力のあらん限りをつくして曳きはじ めましたものの、かほどの大船を動かすのは容易な事ではないらしく、また和卿のお指図にもずいぶんいい加減なところがございましたやうで、日没の頃にいた つてやつと浪打際に、わづかに舳を曳きいれる事が出来ただけで、しかも、この遠浅の由比浦に、とてもこんな大船など浮べる事の出来ないのはわかり切つてゐ ると、その頃になつて言ひ出す者もあり、さう言はれてみるとたしかにそのとほり、大船の出入できる浦ではなく、陳和卿にはまた独特の妙案があり、かならず この浦に船を浮ばせて見せるといふ確信があつてこの造船を引受けたに違ひないものと思はれるし、とにかく和卿に、当初からの見とほしをあらためて問ひただ してみよう、といふ事になつて和卿を捜しましたところが、陳和卿はすでに逐電、けふの日をたのしみに、早くから由比浦におでましになつて大船の浮ぶのを今 か今かと余念なくお待ちになつて居られた将軍家もこの逐電の報をお聞きになつて、もはや一切をお察しなされたやうで、興覚めたお顔でお引上げになつてしま ひまして、将軍家の御渡宋に烈しく反対なされて居られたお方たちは、この時ひそかにお胸を撫で下されたに違ひございませぬが、をさまらぬのは、お供に選び 出された風流武者の面々で、せつかくあれだけの大船を造り上げたのにこのまま中止とは残念だ、ひとつ我々の手でもういちど海へ曳きいれてみようではない か、などと言ひ出すお方もあつた程でございましたけれども、海の深浅を顧慮する法さへ知らぬ大馬鹿者の造つた船なら、たとひ、はるか沖まで曳き出してみた ところで、ひつくり返るにきまつてゐる、と分別顔の人に言はれて、なるほどと感服して引下り、あれほど鎌倉中を騒がせた将軍家の御渡宋も、ここに於いて、 まことにあつけなく、綺麗さつぱりとお流れになり、船は由比浦の汀に打捨てられ、いたづらに朽損じて行くばかりのやうでございました。御度量のひろい将軍 家に於いては、もちろん、御計画の頓挫をいつまでも無念がつていらつしやるやうな事は無く、あの、大かたり者の陳和卿に対してもいささかもお怒りなさら ず、
医王山ホド、ウマクイカナカツタヤウデス。
 と何もかもご存じのやうな和やかな御微笑を含んで、おつしやつた事さへございまして、その後いちども御渡宋の御希望などおもらしになつた事はございませ んでした。かの陳和卿はその後、生死のほども不明でございまして、まさか、日野外山に庵を結んで「方丈記」をお書上げになつたといふやうな話も聞かず、や つぱり、ただやたらに野心のみ強く狡猾の奇策を弄して権門に取入らんと試みた、あさはかな老職人に過ぎなかつたやうに思はれます。
「この船で、」と禅師さまは立止つて、そのぶざまな唐船を見上げ、「本当に宋へ行かうとなされたのかな。」
「さあ、とにかく、鎌倉からちよつとでもお遁れになつてみたいやうな御様子に拝されました。」今夜は、なんでも正直に申し上げようと思つてゐたのでございます。
「でも、あの医王山の長老とかいふ事だけは、信じてゐたのではないか。」
「いいえ、あれは偶然に符合いたしましたところを興がつて居られたといふだけの事で、もつともそれは誰にしたつて、自分の前身は知りたいものでございます し、たとひ信じないにしても医王山の長老などといふ御立派なところで、はしなくも一致したといふのは、わるいお気もなさるまいと思はれます。」
「うまい事を言ふ。」禅師さまは笑つて、「ここへ坐らう。浜は、やつぱり涼しい。私はこの頃、毎晩のやうにここへ来て、蟹をつかまへては焼いて食べます。」
「蟹を。」
「法師だつて、なまぐさは食ふさ。私は蟹が好きでな。もつとも私のやうな乱暴な法師も無いだらうが。」
「いいえ、乱暴どころか、かへつて、お気が弱すぎるやうに私どもには見受けられます。」
「それは、将軍家の前では別だ。あの時だけは全く閉口だ。自分のからだが、きたならしく見えて来て、たまらない。どうも、あの人は、まへから苦手だ。あの人は私を、ひどく嫌つてゐるらしい。」
 私はなんともお答へできませんでした。
「あの人たちには、私のやうに小さい時からあちこち移り住んで世の中の苦労をして来た男といふものが薄汚く見えて仕様が無いものらしい。私はあの人に底知 れず、さげすまれてゐるやうな気がする。あんな、生れてから一度も世間の苦労を知らずに育つて来た人たちには、へんな強さがある。しかし、叔父上も変つた な。」
「お変りになりましたでせうか。」
「変つた。ばかになつた。まあ、よさう。蟹でもつかまへて来ようか。」うむ、と呻いてお立ち上りになつて、「あの唐船の下に、不思議なくらゐたくさん蟹が集るのだ。陳和卿も、公暁のために苦心して蟹の巣を作つてくれたやうなものです。しかし、あれも馬鹿な男だ。」
 禅師さまは、ざぶざぶ海へはひつて行かれて唐船の船腹をおさぐりになつたので、私もそれに続いて海へはひつて禅師さまのなさるとほりに船腹をさぐつてみ ると、いかにも蟹が集つてゐる様子で、禅師さまは馴れた手つきで大きい蟹を一匹ひきずり出すが早いか船板にぐしやりとたたきつけて、砂浜へはふり上げ、あ まりの無慈悲に私は思はず顔をそむけました。
「残忍でございます。およしになつたら、いかがです。」
 私は砂浜へ引上げて来てしまひました。
「とらない人には、食べさせないよ。」禅師さまは平気でそんな事を言ひながらも船腹をさぐり、また一匹引きずり出して、ぐしやりと叩きつけて砂浜へはふり上げ、「蟹は痛いとも思つてゐません。」
 それが五匹になつた時に、禅師さまは、低く笑ひながら砂浜へ上つて来られて、その甲羅のつぶれた蟹を拾ひ集めて、
「なんだ、今夜のはみんな雌か。雌の蟹は肉が少くてつまらない。焚火をしよう。少し手伝つて下さい。」
 私たちは小枝や乾いた海草など拾ひ集めました。五匹の蟹を浅く砂に埋めてその上に小枝や海草を積み重ねて火を点じ、やがてその薪の燃え尽きた頃に、砂の中から蟹を拾ひ上げられて、
「食べなさい。」
「いや、とても。」
「それでは私がひとりで食べる。私は蟹が好きなんだ。どうしてだか、ひどく好きなんだ。」おつしやりながら、器用に甲羅をむいてむしやむしや食べはじめて、ほとんど蟹に夢中になつていらつしやるやうに見えながら、ふいと、「死なうかと思つてゐるんだ。」
「え?」私は、はつとして暗闇の中の禅師さまの顔を覗き込みました。けれども、こんどは蟹の脚をかりりと噛んで中の白い肉を指で無心にほじくり出し、いまはもう蟹の事の他は何も考へていらつしやらぬ御様子で、さうして、しばらくして、またふいと、
「死なうと思つてゐるのです。死んでしまふんだ。」さうして、また、かりりと蟹の脚を齧つて、「鎌倉へ来たのが間違ひでした。こんどは、たしかに祖母上の落度です。私は一生、京都にゐなければならなかつたのだ。」
「京都がそんなにお好きですか。」
「まだ私の気持がおわかりにならぬと見える。京都は、いやなところです。みんな見栄坊です。嘘つきです。口ばかり達者で、反省力も責任感も持つてゐません。だから私の住むのに、ちやうどいいところなのです。軽薄な野心家には、都ほど住みよいところはありません。」
「そんなに御自身を卑下なさらなくとも。」
「叔父上が、あれほど京都を慕つてゐながら、なぜ、いちども京都へ行かぬのか、そのわけをご存じですか。」
「それは、故右大将家の頃から、京都とはあまり接近せぬ御方針で、故右大将さまさへ、たつた二度御上洛なさつたきりで、——」
「しかし、思ひ立つたら宋へでも渡らうとする将軍家です。」
「邪魔をなさるお方もございませうし、——」
「それもある。へんな用心をして叔父上の上京をさまたげてゐる人もある。けれども、それだけでは、ないんだ。叔父上には、京都がこはいのです。」
「まさか。あれほどお慕ひしていらつしやるのに。」
「いや、こはいんだ。京都の人たちは軽薄で、口が悪い。そのむかしの木曾殿のれいもある事だ。将軍家といふ名ばかり立派だが、京の御所の御儀式の作法一つ にもへどもどとまごつき、ずんぐりむつつりした田舎者、言葉は関東訛りと来てゐるし、それに叔父上は、あばたです、あばた将軍と、すぐに言はれる。」
「おやめなさいませ。将軍家は微塵もそんな事をお気にしてはいらつしやらない。失礼ながら、禅師さまとはちがひます。」
「さうですか。将軍家が気にしてゐなくたつて、人から見れば、あばたはあばただ。祖父の故右大将だつて、頭でつかちなもんだから京都へ行つたとたんにも う、大頭将軍といふ有難くもないお名前を頂戴して、あんな下賤の和卿などにさへいい加減にあしらはれて贈り物をつつかへされたり、さんざん赤恥をかかされ てゐるんだ。京都といふのは、そんないやなところなのです。けれども右大将家は、やつぱり偉い。京都の人から馬鹿にされようがどうされようが、ちつとも気 にしてはゐないんだ。関東の長者の実力を信じて落ちついてゐたんだ。ところが、失礼ですけれども、当将軍家は、さうではないのです。とても平気で居られな い。田舎者と言はれるのが死ぬよりつらいらしいので、困つた事になるのです。野暮な者ほど華奢で繊細なものにあこがれる傾きがあるやうだが、あの人の御日 常を拝見するに、ただ、都の人から笑はれまいための努力だけ、それだけなんだ。あの人には京都がこはくて仕様がないんだ。まぶしすぎるんだ。京都へ行つて も、京都の人に笑はれないくらゐのものになつてから、京都へ行きたいと念じてゐるのだ。それに違ひないのだ。やたらに官位の昇進をお望みになるのも、それ だ。京都の人に、いやしめられたくないのだ。大いにもつたいをつけてから、京都へ行きたいのだらうが、そんな努力は、だめだめ。みんな、だめ。せいぜい、 まあ、田舎公卿、とでもいふやうな猿に冠を着けさせた珍妙な姿のお公卿が出来上るだけだ。田舎者のくせに、都の人の身振りを真似るくらゐ浅間しく滑稽なも のは無いのだ。都の人は、そんな者をまるで人間でないみたいに考へてゐるのだ。私も、京都へはじめて行つた時には、ずいぶんまごついた。くやし泣きに泣い た事もある。けれども私の生来の軽薄な見栄坊の血が、京の水によく合ふと見えて、いまではもう、結局自分の落ちつくところは京都ではなからうかと思ふやう にさへなつてゐる。私は山師だ。山師は絶対に田舎では生きて行けない。また田舎の人も、山師を決して許さない。田舎の人は冗談も何も無く、けちくさくて、 ただ固い。けれども、あれはまた、あれでいいのだ。ただ黙つて田舎に住んでゐる人の中に、本当の偉い人間といふものが見つかるやうな気もする。いけないの は、田舎者のくせに、都の人と風流を競ひ、奇妙に上品がつてゐる奴と、それから私のやうに、田舎へ落ちて来た山師だ。私は、まさか陳和卿のやうに将軍家の 前でわあわあ泣きはしないけれども、どうしてだか、つい卑屈なあいそ笑ひなどしてしまつて、自分で自分がいやになつていやになつてたまらない、いけない、 いけない。このままぢやいけない。死ぬんだ。私は、死ぬんだ。」別の蟹の甲羅をむいて、むしやむしや食べて、「叔父上は私の山師を見抜いてゐる。陳和卿と 同類くらゐに考へてゐる。私は、きらはれてゐる。さうして私だつて、あの田舎者を、冠つけた猿みたいに滑稽なものだと思つてゐるんだ。あはは、お互ひに極 度に、さげすみ合つてゐるのだから面白い。源家は昔から親子兄弟の仲が悪いんだ。ところで将軍家は、このごろ本当に気が違つてゐるのださうぢやないか。思 ひ当るところがあるでせう。」
 私は、ぎよつと致しました。
「誰が、いや、どなたがそのやうなけしからぬ事を、——」
「みんな言つてゐる。相州も言つてゐた。気が違つてゐるのだから、将軍家が何をおつしやつても、さからはずに、はいはいと言つてゐなさい、つて相州が私に教へた。祖母上だつて言つてゐる。あの子は生れつき、白痴だつたのです、と言つてゐた。」
「尼御台さままで。」
「さうだ。北条家の人たちには、そんな馬鹿なところがあるんだ。気違ひだの白痴だの、そんな事はめつたに言ふべき言葉ぢやないんだ。殊に、私をつかまへて 言ふとは馬鹿だ。油断してはいけない。私は前将軍の、いや、まあ、そんな事はどうでもいいが、とにかく北条家の人たちは根つからの田舎者で、本気に将軍家 の発狂やら白痴やらを信じてゐるんだから始末が悪い。あの人たちは、まさか、陰謀なんて事は考へてゐないだらうが、気違ひだの白痴だのと、思ひ込むと誰は ばからずそれを平気で言ひ出すもんだから、妙な結果になつてしまふ事もある。みんな馬鹿だ。馬鹿ばつかりだ。あなただつて馬鹿だ。叔父上があなたを私のと ころへ寄こしたのは、淋しいだらうからお話相手、なんて、そんな生ぬるい目的ぢやないんだ。私の様子をさぐらうと、——」
「いいえ、ちがひます。将軍家はそんないやしい事をお考へになるお方ではございませぬ。」
「さうですか。それだから、あなたは馬鹿だといふのだ。なんでもいい。みんな馬鹿だ。鎌倉中を見渡して、まあ、真人間は、叔父上の御台所くらゐのところ か。ああ、食つた。すつかり食べてしまつた。私は、蟹を食べてゐるうちは何だか熱中して胸がわくわくして、それこそ発狂してゐるみたいな気持になるんだ。 つまらぬ事ばかり言つたやうに思ひますが、将軍家に手柄顔して御密告なさつてもかまひません。」
「馬鹿!」私は矢庭に切りつけました。
 ひらりと飛びのいて、「あぶない、あぶない。鎌倉には気違ひがはやると見える。叔父上も、いい御家来衆ばかりあつて仕合せだ。」さつさと帰つておしまひになりました。
 闇の中にひとり残されて、ふと足許を見ると食ひちらされた蟹の残骸が、そこら中いつぱいに散らばつてゐるのがほの白く見えて、その掃溜のやうな汚なさ が、そのままあの人の心の姿だと思ひました。翌る日、御ところへ出仕して、昨夜、僧院へお話相手にお伺ひした事を言上いたしましたところが、将軍家に於い ては、ただ軽く首肯かれただけで、別にその時の様子などを御下問なさるやうな事もなく、かへつて私のはうから、
「禅師さまには、ふたたび京都へおいでになりたいやうな御様子でございました。」と要らざる出しやばり口をきいたやうな次第でございましたけれども、将軍家はちよつとお考へになつて、それから一言、
ドコヘ行ツテモ、同ジコトカモ知レマセン。
 と私の気のせゐかひどく悲しさうな御口調で呟やかれました。やつぱり将軍家は、何もかも御洞察になつて居られるのだ、と私はただ深い溜息をつくばかりで ございました。さうして、そのとしも、また翌年の建保六年も、将軍家の御驕奢はつのるばかり、和歌管絃の御宴は以前よりさらに頻繁になつたくらゐで、夜を 徹しての御遊宴もめづらしくは無く、またその頃から鶴岳宮の行事やもろもろの御仏事に当つてさへ、ほとんど御謙虚の敬神崇仏の念をお忘れになつていらつし やるのではないかと疑はれるほど、その御儀式の外観のみをいたづらに華美に装ひ、結構を尽して盛大に取行はせられ、尼御台さまも、相州さまも入道さまも、 いまは何事もおつしやらず、ことに尼御台さまに於いては、世上往々その専横を伝へられながらこの将軍家に対してだけはあまりそのやうな御形跡も見受けられ ず、まさかあの不埒な禅師さまの言ふやうに、将軍家をお生れになつた時からの白痴と思召されてゐたわけでもございますまいに、前将軍家左金吾禅室さまの御 時やら、当将軍家御襲職の前後には、なかなか御活躍なさつたものでございましたさうで、また当将軍家があの恐しい不慮の御遭難に依つておなくなりになられ たのち、ふたたび急にあらはに御政務にお口出しなさるやうになつて、尼将軍などと言はれるやうになつたのも、実にその頃からの事のやうでございますが、け れども、この将軍家の頃には、前にもちよつと申し上げましたやうにひたすら左金吾禅室さまの御遺児をお守りして優しい御祖母さまになり切つて居られたやう にさへ見受けられ、当将軍家御成人の後には御政務へ直接お口出しなさつた事などほとんど無く、この建保五、六年の将軍家の御奢侈をさへ厳しくおいさめ申し たといふ噂を聞かず、かへつてその華美を尽した絢爛の御法要などに御台所さまと御一緒にお見えになつて、御機嫌も、うるはしい御模様に拝され、それは決し て当将軍家の事を白痴だなどと申してあきらめていらつしやる故ではなく、心から御信頼あそばしていらつしやるからこそ、このやうな淡泊の御態度をお示しに なる事も出来るのであらうと、私たちと致しましては、なんとしても、そのやうにしか思はれなかつたのでございました。建保六年の三月には、将軍家かねて御 嘱望の左近大将に任ぜられ、六月二十七日にはその御拝賀のため鶴岳宮にお参りなさいましたが、その折の御行列の御立派だつたこと、まさに鎌倉はじまつて以 来の美々しい御儀式でございまして、すでに御式の十日ほど前から京の月卿雲客たちが続々とその御神拝に御列席のため鎌倉へお見えになつて居られまして、二 十日には、御勅使内蔵頭忠綱さまの御参著、かしこくも仙洞御所より御下賜に相成りましたところの、御拝賀の御調度すなはち檳榔、半蔀の御車二輌、御弓、御 装束、御随身の装束、移鞍などおびただしく御ところにおとどけになられ、将軍家はいまさらながら鴻大の御朝恩に感泣なされて、御勅使忠綱さまに対して実に 恭しく御礼言上あそばされ、御饗応も山の如く、この日にはまた池前兵衛佐為盛さま、右馬権頭頼茂さまなども京より御下著になり、このお方たちにもまたお手 厚い御接待を怠らず、御式の日に至るまで連日連夜、御饗宴、御進物など花美を尽し、ために費用も莫大なるものになりました御様子で、関東の庶民は等しくそ の費用の賦課にあづかり、ひそかに将軍家をお怨み申した者も少からずございました由、風のたよりに聞き及んで居ります。けれども将軍家に於いては、御費用 の事など一向にお気にとめられぬ御様子で、その二十七日にめでたく御拝賀の式がおすみになると、さらに七月八日、左大将御直衣始の御儀式を挙げられ、先月 二十七日の御拝賀の折と全く御同様の大がかりな御粧ひの御行列にて鶴岳宮へ御参拝に相成り、いまはもう、御家人といひ土民といひ、ほとんどその財産を失 ひ、愁歎の声があからさまに随処に起る有様でございましたのに、さらに、そのとしの十二月二日、将軍家いよいよ右大臣に任ぜられ、二十日、右大臣政所始の 御儀式を行はせられ、二十一日、将軍家右大臣御拝賀のためその翌年の正月二十七日鶴岳八幡宮に御参詣有るべきに依つて、またも仙洞御所より御下賜の御車、 御装束など一切の御調度が鎌倉へ到著し、鎌倉中は異様に物騒がしくなり、しかもこのたびの御拝賀の御式は、六月の左近大将拝賀の式よりも、はるかに数層倍 大規模のものになる様子で、ただごとではない、と御ところの人たちも目を見合せ、ともしびの、まさに消えなんとする折、一際はなやかに明るさを増すが如 く、将軍家の御運もここ一両年のうちに尽きるのであるまいかといふ悲しい予感にさへ襲はれ、思へば十年むかし、私が十二歳で御ところへ御奉公にあがつて、 そのとき将軍家は御十七歳、あの頃しばしば御ところへ琵琶法師を召されて法師の語る壇浦合戦などに無心にお耳を傾けられ、平家ハ、アカルイ、とおつしやつ て、アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ、と御自身に問ひかけて居られた時の御様子が、ありありと私の眼前に蘇つてまゐりまして、人知れず涙に咽ぶ夜もござ いました。あのけがらはしい悪別当、破戒の禅師は、その頃、心願のすぢありと称して一千日の参籠を仰出され、何をなさつてゐるのやら鶴岳宮に立籠つて外界 とのいつさいの御交通を断ち、宮の内部の者からの便りによれば、法師のくせに髪も鬚も伸ばし放題、このとしの十二月、ひそかに使者をつかはして太神宮に奉 幣せしめ、またその他数箇所の神社にも使者を進発せしめたとか、何事の祈請を致されたのか、何となく、いまはしい不穏の気配が感ぜられ、一方に於いては鎌 倉はじまつて以来の豪華絢爛たる大祭礼の御準備が着々とすすめられ、十二月二十六日には、御拝賀の御行列に供奉申上げる光栄の随兵の御撰定がございまし て、そもそもこのたびの御儀式の随兵たるべき者は、まづ第一には、幕府譜代の勇士たる事、次には、弓馬の達者、しかしてその三つには容儀神妙の、この三徳 を一身に具へてゐなければならぬとの仰せに従ひ、名門の中より特に慎重に撰び挙げられたいづれ劣らぬ容顔美麗、弓箭達者の勇士たちは、来年正月の御拝賀こ そ関東無双の晴れの御儀にして殆んど千載一遇とも謂ひつべきか、このたび随兵に加へらるれば、子孫永く武門の面目として語り継がん、まことに本懐至極の 事、と互ひに擁して慶祝し合ひ、ひたすら新年を待ちこがれて居られる御様子でございましたけれども、当時、鎌倉の里に於いて、何事も思はず、ただ無心にお 喜びになつていらつしやつたのは、おそらく、このお方たちだけでは無かつたらうかと思はれます。

建保七年己卯。四月十二日承久元年と為す。正月大。
七日、甲戌、戌刻、御所の近辺、前大膳大夫入道覚阿の亭以下四十余宇焼亡す。
十五日、丙子、丑刻、大倉辺焼亡す、数十宇災す。
廿三日、甲申、晩頭雪降る、夜に入つて尺に満つ。
廿四日、乙酉、白雪山に満ち地に積る。
廿七日、甲午、霽、夜に入つて雪降る、積ること二尺命、今日将軍家右大臣拝賀の為、鶴岳八幡宮に御参、酉刻御出、
行列
  先づ居飼四人
  次に舎人四人
  次に一員
 将曹菅野景盛  府生狛盛光
 将監中原成能
  次に殿上人
 一条侍従能氏  藤兵衛佐頼経
 伊予少将実雅  右馬権頭頼茂朝臣
 中宮権亮信能朝臣  一条大夫頼氏
 一条少将能継    前因幡守師憲朝臣
 伊賀少将隆経朝臣  文章博士仲章朝臣
  次に前駈笠持
  次に前駈
 藤勾当頼隆     平勾当時盛
 前駿河守季時    左近大夫朝親
 相模権守経定    蔵人大夫以邦
 右馬助行光     蔵人大夫邦忠
 左衛門大夫時広   前伯耆守親時
 前武蔵守義氏    相模守時房
 蔵人大夫重綱    左馬権助範俊
 右馬権助宗保    蔵人大夫有俊
 前筑後守頼時    武蔵守親広
 修理権大夫惟義朝臣 右京権大夫義時朝臣
  次に官人
 秦兼峰       番長下毛野敦秀
  次に御車、車副四人、牛童一人
  次に随兵
 小笠原次郎長清 小桜威  武田五郎信光 黒糸威
 伊豆左衛門尉頼定 萌黄威 隠岐左衛門尉基行 紅威
 大須賀太郎道信 藤威   式部大夫泰時 小桜威
 秋田城介景盛 黒糸威   三浦小太郎時村 萌黄威
 河越次郎重時 紅威    荻野次郎景員 藤威
    各冑持一人、張替持一人、傍路に前行す、
  次に雑色廿人
  次に※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)非違使
 大夫判官景廉
  次に御調度懸
 佐々木五郎左衛門尉義清
  次に下臈御随身
 秦公氏   同兼村
 播磨貞文  中臣近任
 下毛野敦光 同敦氏
  次に公卿
 新大納言忠信     左衛門督実氏
 宰相中将国道     八条三位光盛
 刑部卿三位宗長
  次
 左衛門大夫光員    隠岐守行村
 民部大夫広綱     壱岐守清重
 関左衛門尉政綱    布施左衛門尉康定
 小野寺左衛門尉秀道  伊賀左衛門尉光季
 天野左衛門尉政景   武藤左衛門尉頼茂
 伊東左衛門尉祐時   足立左衛門尉元春
 市河左衛門尉祐光   宇佐美左衛門尉祐長
 後藤左衛門尉基綱   宗左衛門尉孝親
 中条左衛門尉家長   佐貫左衛門尉広綱
 伊達右衛門尉為家   江右衛門尉範親
 紀右衛門尉実平    源四郎右衛門尉季氏
 塩谷兵衛尉朝業    宮内兵衛尉公氏
 若狭兵衛尉忠季    綱嶋兵衛尉俊久
 東兵衛尉重胤     土屋兵衛尉宗長
 堺兵衛尉常秀     狩野七郎光広
  路次の随兵一千騎なり、
抑も今日の勝事、兼ねて変異を示す事一に非ず、所謂、御出立の期に及びて、前大膳大夫入道参進して申して云ふ、覚阿成人の後、未だ涙の顔面に浮ぶことを知 らず、而るに今昵近し奉るの処、落涙禁じ難し、是只事に非ず、定めて仔細有る可きか、東大寺供養の日、右大将軍の御出の例に任せ、御束帯の下に腹巻を著け しめ給ふ可しと云々、仲章朝臣申して云ふ、大臣大将に昇る人、未だ其式有らずと云々、仍つて之を止めらる、又公氏御鬢に候するの処、自ら御鬢一筋を抜き、 記念と称して之を賜はる、次に庭の梅を覧て禁忌の和歌を詠じ給ふ、
 出テイナバ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
(以上吾妻鏡)
(以下承久軍物語に拠る)
このとき右京権大夫義時は、御剣の役を勤め給ひしが、宮の門に入給ふ折ふし、俄かに心神悩乱し、前後暗くなりしかば、文章博士仲章を呼びて御剣をゆづり、 退去して己の邸に帰り給ふ、ここに不思議あり、将軍御車より降り給ふとて、細太刀の柄、御車の手形に入りたるけるを知らせ給はで、打折らせ給ふこそ、あさ ましけれ、然るに、仲章苦しうも候ふまじとて、木を結ひ添へてぞまゐらせける、むかし臨江王といひし人はるかの道におもむくとて、車の轅折れたりけるを、 慎しまずして行きけるが、再び返ることを得ずして、他国の土と朽ちにけり、前車のくつがへるは、後車の戒しめとこそ申すに、諫め申さざる文章博士不覚なる 次第也、これのみか、御車の前を黒き犬、横さまに通る事、霊鳩しきりに鳴く事、かたがたもていまいましき告げ有りけるを、驚かぬこそはかなけれ、さるほど に石階に近づかせ給ふ時、いづくよりともなく、美僧あらはれ来て、将軍を犯し奉る、はじめ一太刀は笏にて合せ給へども、次の太刀にぞ御首は落され給ひけ り、文章博士仲章、因幡前司師憲も斬られけり、前後に候ひける随兵ども、こは如何なる事ぞやとて、あわて騒ぎて宮の中に馳せ込むといへども、かたきは誰と も知らず、頃は正月廿七日の戌の時の事なれば、暗さは暗し、上を下に返して、どよむ声おびただし、かかりける所に、上宮の砌にて、阿闍梨公暁、父のかたき を討つと名乗られつるといふ事ありて、軍勢ども、すなはちかの禅師がおはします雪下の本坊を襲ふところに、ここには、おはしまさずとて兵ども帰りけり、さ ても別当、公暁とは、故右大将殿の御嫡孫にして金吾将軍の二男なり、御母は、賀茂の六郎重長の女にてぞおはしける、みなし児にて、おはせしを、祖母の二位 の禅尼、ふびんに思召し、鶴岳八幡宮の別当職に附せらる、かねて将軍ならびに右京大夫義時を討たんとて窺ひ給ふといへども、未だ本望をとげ給はず、この拝 賀の時節を、天の与へと喜びて、おぼし立つところに、義時こそ、御剣の役に定りける由聞こしめしければ、まづ一の太刀に討ち給ふところに、引かへ、仲章御 剣の役を勤めし故にこそ、あへなく討たれけるとかや、ともかくに日頃の宿意を遂ぐると悦びて、すなはち将軍の御首を手に持ち、後見の備中阿闍梨が雪下の北 谷の家に向はれけるが、物などまゐらせける間も、御首を放し給はず、然るに、別当の門弟に、駒若丸と申すは、三浦の平六左衛門義村が二男也、そのよしみ を、おぼしけるかや、源太兵衛と申す者を御使ひにて、義村が方へ仰せ遣されけるは、右府将軍すでに薨じ給ひぬ、いま関東の長たるべき者は我なり、早く計略 をめぐらすべしと示し合されければ、義村、大きに呆れ、日頃将軍家御恩厚く被り奉れば、今更いたはしく思ひ、右京大夫に参りて申合せければ、すみやかに別 当阿闍梨を誅し奉るべきに定りけり、すなはち長尾の新六、雑賀の二郎以下五人の兵に仰せて、阿闍梨の在所へつかはさる、別当は、使ひの遅き事を待ちかね給 ひて、義村が私宅に至らんとおぼしめして山中にかかり給ふが、その夜しも大雪降りて、道に迷うておはせし所に、長尾の六郎往き逢ひて誅し奉らんとす、別当 は、早業力業、人にすぐれ給へば、左右なく討たれ給はず、積雪を蹴散らし蹴散らし、ここを先途と闘ひ給ふ、しかれども、多勢に不勢かなはねば、つひに討ち とられ給ひけり、明くれば、廿八日、将軍家の御葬礼を営まんとするところに、御首のありか知れざりければ、いかにせんと惑ふところに、きのふ御ところの御 出の時、公氏御鬢に参りければ、鬢の髪を一すぢ抜かせ給ひて、御形見とて賜ひし事こそ、いまはしけれ、その一すぢの御髪を御頭の代りに用ゐて、御棺に入れ 奉り、勝長寿院の傍に葬り奉る、この日、御台所も御出家あり、御戒師は行勇僧都なり、また武蔵守親広、左衛門大夫時広、城介景盛以下、数百人の大名ども、 ことごとく出家したり、あはれなるかな、きさらぎ二日、加藤判官大波羅に馳せつき、右府将軍御他界のよし申しければ、京中の貴賤男女聞き伝へ、東西を失ひ て歎き悲しみける。
 ただ、あきれたるよりほかの事なし、京にもきこしめしおどろく、世のなか、ふつと火を消ちたるさまなり。(増鏡)