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兄たち」(2007/02/11 (日) 12:55:43) の最新版変更点

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<br>  父がなくなったときは、長兄は大学を出たばかりの二十五歳、次兄は二十三歳、三男は二十歳、私が十四歳でありました。兄たちは、みんな優しく、そうして 大人びていましたので、私は、父に死なれても、少しも心細く感じませんでした。長兄を、父と全く同じことに思い、次兄を苦労した伯父さんの様に思い、甘え てばかりいました。私が、どんなひねこびた<ruby><rb>我儘</rb><rp>(</rp><rt>わがまま</rt><rp>)</rp></ruby>いっ ても、兄たちは、いつも笑って許してくれました。私には、なんにも知らせず、それこそ私の好きなように振舞わせて置いてくれましたが、兄たちは、なかな か、それどころでは無く、きっと、百万以上はあったのでしょう、その遺産と、亡父の政治上の諸勢力とを守るのに、眼に見えぬ努力をしていたにちがいありま せぬ。たよりにする伯父さんというような人も無かったし、すべては、二十五歳の長兄と、二十三歳の次兄と、力を合せてやって行くより他に仕方がなかったの でした。長兄は、二十五歳で町長さんになり、少し政治の実際を練習して、それから三十一歳で、県会議員になりました。全国で一ばん若年の県会議員だったそ うで、新聞には、A県の<ruby><rb>近衛</rb><rp>(</rp><rt>このえ</rt><rp>)</rp></ruby>公とされて、漫画なども出てたいへん人気がありました。<br>  長兄は、それでも、いつも暗い気持のようでした。長兄の望みは、そんなところに無かったのです。長兄の書棚には、ワイルド全集、イプセン全集、それから 日本の戯曲家の著書が、いっぱい、つまって在りました。長兄自身も、戯曲を書いて、ときどき弟妹たちを一室に呼び集め、読んで聞かせてくれることがあっ て、そんな時の長兄の顔は、しんから嬉しそうに見えました。私は幼く、よくわかりませんでしたけれど、長兄の戯曲は、たいてい、宿命の悲しさをテエマにし ているような気がいたしました。なかでも、「奪い合い」という長編戯曲に<ruby><rb>就</rb><rp>(</rp><rt>つ</rt><rp>)</rp></ruby>いては私は、いまでも、その中の人物の表情までも、はっきり思い出すことができるのであります。<br>  長兄が三十歳のとき、私たち一家で、「青んぼ」という<ruby><rb>可笑</rb><rp>(</rp><rt>おか</rt><rp>)</rp></ruby>しな名前の同人雑誌を発行したことがあります。そのころ美術学校の<ruby><rb>塑像</rb><rp>(</rp><rt>そぞう</rt><rp>)</rp></ruby>科に在籍中だった三男が、それを<ruby><rb>編輯</rb><rp>(</rp><rt>へんしゅう</rt><rp>)</rp></ruby>いたしました。<br> 「青んぼ」という名前も、三男がひとりで考案して得意らしく、表紙も、その三男が<ruby><rb>画</rb><rp>(</rp><rt>か</rt><rp>)</rp></ruby>いたのですけれども、シュウル式の<ruby><rb>出鱈目</rb><rp>(</rp><rt>でたらめ</rt><rp>)</rp></ruby>のもので、銀粉をやたらに使用した、わからない絵でありました。長兄は、創刊号に随筆を発表しました。<br> 「めし」という題で、長兄が、それを私に口述筆記させました。いまでも覚えて居ります。二階の西洋間で、長兄は、両手をうしろに組んで天井を見つめながら、ゆっくり歩きまわり、<br> 「いいかね、いいかね、はじめるぞ。」<br> 「はい。」<br> 「おれは、ことし三十になる。孔子は、三十にして立つ、と言ったが、おれは、立つどころでは無い。倒れそうになった。生き<ruby><rb>甲斐</rb><rp>(</rp><rt>がい</rt><rp>)</rp></ruby>を、身にしみて感じることが無くなった。強いて言えば、おれは、めしを食うとき以外は、生きていないのである。ここに言う『めし』とは、生活形態の抽象でもなければ、生活意慾の概念でもない。直接に、あの茶碗一ぱいのめしのことを指して言っているのだ。あのめしを<ruby><rb>噛</rb><rp>(</rp><rt>か</rt><rp>)</rp></ruby>む、その瞬間の感じのことだ。動物的な、満足である。下品な話だ。……」<br>  私は、未だ中学生であったけれども、長兄のそんな述懐を、せっせと筆記しながら、兄を、たまらなく可哀想に思いました。A県の近衛公だなぞと無智なおだてかたはしても、兄のほんとうの淋しさは、誰も知らないのだと思いました。<br>  次兄は、この創刊号には、何も発表なさらなかったようですが、この兄は、谷崎潤一郎の初期からの愛読者でありました。それから、また、吉井勇の人柄を、 とても好いていました。次兄は、酒にも強く、親分気質の豪快な心を持っていて、けれども、決して酒に負けず、いつでも長兄の相談相手になって、まじめに物 事を処理し、謙遜な人でありました。そうしてひそかに、吉井勇の、「紅燈に行きてふたたび帰らざる人をまことのわれと思ふや。」というような<ruby><rb>鬱勃</rb><rp>(</rp><rt>うつぼつ</rt><rp>)</rp></ruby>の雄心を愛して居られたのではないかと思われます。いつか<ruby><rb>鳩</rb><rp>(</rp><rt>はと</rt><rp>)</rp></ruby>に 就いての随筆を、地方の新聞に発表して、それに次兄の近影も掲載されて在りましたがその時、どうだ、この写真で見ると、おれも、ちょっとした文士だね、吉 井勇に似ているね、と冗談に威張って見せました。顔も、左団次みたいな、立派な顔をしていました。長兄の顔は、線が細く、<ruby><rb>松蔦</rb><rp>(</rp><rt>しょうちょう</rt><rp>)</rp></ruby>のようだと、これも家中の評判でありました。ふたり共、それをちゃんと意識していて、お酒に酔ったとき、掛合いで左団次松蔦の<ruby><rb>鳥辺山</rb><rp>(</rp><rt>とりべやま</rt><rp>)</rp></ruby>心中や皿屋敷などの声色を、はじめることさえ、たまにはありました。<br>  そんなとき、二階の西洋間のソファにひとり寝ころんで、遠く兄たち二人の声色を聞き、けッと毒笑しているのが、三男でありました。この兄は美術学校には いっていたのですが、からだが弱いので、あまり塑像のほうへは精を出さず、小説に夢中になって居りました。文学の友だちもたくさんあって、その友人たちと 「十字街」という同人雑誌を発行し、ご自身は、その表紙の絵をかいたり、また、たまには「苦笑に終る」などという淡彩の小説を書いて発表したりしていまし た。夢川利一という筆名だったので、兄や姉たちは、ひどい名前だといって閉口し、笑っていました。RIICHI UMEKAWA とロオマ字でもって印刷した名刺を作らせ、少し気取って私にも一枚くださいましたが、読んでみると、リイチ・ウメカワとなっているので、私まで、ひやっと して、兄さんは、ユメカワでしょう? わざと、こう刷らせたの? とたずねたら、兄は、<br> 「やあ、しまった。おれは、ウメカワじゃ無いんだ。」と言って、顔を真赤になさいました。もう、名刺を、友人や先輩、または<ruby><rb>馴染</rb><rp>(</rp><rt>なじみ</rt><rp>)</rp></ruby>の 喫茶店に差し上げてしまっていたのです。印刷所の手落ちでは無く、兄がちゃんと UMEKAWA と指定してやったものらしく、uという字を、英語読みにユウと読んでしまうことは、誰でも犯し易い間違いであります。家中、いよいよ大笑いになって、それ からは私の家では、梅川先生だの、忠兵衛先生だのと呼ばれるようになりました。この兄は、からだが弱くて、十年まえ、二十八歳で死にました。顔が、不思議 なくらい美しく、そのころ姉たちが読んでいた少女雑誌に、フキヤ・コウジとかいう人の画いた、眼の大きい、からだの細い少女の口絵が毎月出ていましたけれ ど、兄の顔は、あの少女の顔にそっくりで、私は時々ぼんやり、その兄の顔を眺めていて、ねたましさでは無く、へんにくすぐったいような楽しさを感じていま した。<br>  性質はまじめな、たいへん厳格で律儀なものをさえ、どこかに隠し持っていましたが、それでも趣味として、むかしフランスに流行したとかいう<ruby><rb>粋紳士風</rb><rp>(</rp><rt>プレッシュウ</rt><rp>)</rp></ruby>、または<ruby><rb>鬼面毒笑風</rb><rp>(</rp><rt>ビュルレスク</rt><rp>)</rp></ruby>を 信奉している様子らしく、むやみやたらに人を軽蔑し、孤高を装って居りました。長兄は、もう結婚していて、当時、小さい女の子がひとり生れていましたが、 夏休みになると、東京から、A市から、H市から、ほうぼうの学校から、若い叔父や叔母が家へ帰って来て、それが皆一室に集り、おいで東京の叔父さんのとこ へ、おいでA叔母さんのとこへ、とわいわい言って小さい<ruby><rb>姪</rb><rp>(</rp><rt>めい</rt><rp>)</rp></ruby>ひ とりを奪い合うのですけれど、そんなときには、この兄は、みんなから少し離れて立っていて、なんだ、まだ赤いじゃないか、気味がわるい、などと、生れたば かりの小さい姪の悪口を言い、それから、仕方なさそうに、ちょっと両手を差し伸べ、おいでフランスの叔父さんのとこへ、と言うのでした。また、晩ごはんの ときには、ひとり、ひとりお膳に向って坐り、祖母、母、長兄、次兄、三兄、私という順序に並び、向う側は、帳場さん、<ruby><rb>嫂</rb><rp>(</rp><rt>あによめ</rt><rp>)</rp></ruby>、姉たちが並んで、長兄と次兄は、夏、どんなに暑いときでも日本酒を固執し、二人とも、その傍に大型のタオルを用意させて置いて、だらだら流れる汗を、それでもって拭い拭い<ruby><rb>熱燗</rb><rp>(</rp><rt>あつかん</rt><rp>)</rp></ruby>のお酒を呑みつづけるのでした。ふたりで毎晩一升以上も呑むようでしたが、どちらも酒に強いので、座の乱れるようなことは、いちどもありませんでした。三兄は、決してそのお仲間に加わらず、知らんふりして自分の席に坐って、<ruby><rb>凝</rb><rp>(</rp><rt>こ</rt><rp>)</rp></ruby>ったグラスに葡萄酒をひとりで注いで<ruby><rb>颯</rb><rp>(</rp><rt>さ</rt><rp>)</rp></ruby>っと呑みほし、それから大急ぎでごはんをすまして、ごゆっくり、と真面目にお辞儀して、もう<ruby><rb>掻</rb><rp>(</rp><rt>か</rt><rp>)</rp></ruby>き消すように、いなくなってしまいます。とても、水際立ったものでした。<br> 「青んぼ」という雑誌を発行したときも、この兄は編輯長という格で、私に言いつけて、一家中から、あれこれと原稿を集めさせ、そうして集った原稿を読んで は、けッと毒笑していました。私が、やっと、長兄から「めし」という随筆を、口述筆記させてもらって、編輯長のところへ少し得意で呈出したら、編輯長はそ れを読むなりけッと笑って、<br> 「なんだいこれは。号令口調というんだね。孔子<ruby><rb>曰</rb><rp>(</rp><rt>いわ</rt><rp>)</rp></ruby>く、はひどいね。」と、さんざ悪口言いました。ちゃんと長兄の<ruby><rb>侘</rb><rp>(</rp><rt>わ</rt><rp>)</rp></ruby>び しさを解していながら、それでも自身の趣味のために、いつも三兄は、こんな悪口を言うのでした。人の作品を、そんなに悪く言いながら、この兄ご自身の作品 は、どうかということになれば、そうなると、なんだか心細いものでした。この「青んぼ」という変な名前の雑誌の創刊号には、編輯長は自重して小説を発表せ ず、叙情詩を二篇、発表いたしましたが、どうも、それは、いま、いくら考えてみても傑作とは思えないものなのであります。あの、兄ともあろうお人が、どう してこんなものを発表する気になったか、私は、いまは残念にさえ思います。<ruby><rb>甚</rb><rp>(</rp><rt>はなは</rt><rp>)</rp></ruby>だ、 書きにくいのでありますが、それは、こんな詩なのであります。「あかいカンナ」というのと、「矢車の花いとし」というのと、二つでありますが、前者は「あ かいカンナの花でした。私の心に似ています。云々。」なんだか、とても、書きにくい思いなのですが、後者は、「矢車の花いとし。一つ、二つ、三つ、私のた もとに入れました。云々。」というのであります。どういうものでしょうか。やはり、<ruby><rb>之</rb><rp>(</rp><rt>これ</rt><rp>)</rp></ruby>は、大事に<ruby><rb>筐底</rb><rp>(</rp><rt>きょうてい</rt><rp>)</rp></ruby>深く蔵して置いたほうが、よかったのでは無かったかと、私は、あのお<ruby><rb>洒落</rb><rp>(</rp><rt>しゃれ</rt><rp>)</rp></ruby>な<ruby><rb>粋</rb><rp>(</rp><rt>いき</rt><rp>)</rp></ruby>紳 士の兄のために、いまになって、そう思うのでありますが、当時は、私は兄の徹底したビュルレスクを尊敬し、それに東京の「十字街」というかなり有名らしい 同人雑誌の仲間ではあり、それにまた兄には、その詩がとても自慢のものらしく、町の印刷所で、その詩の校正をしながら、「あかいカンナの花でした。私の心 に似ています。」と、変な節をつけて歌い出す仕末なので、私にもなんだか傑作のような気がして参ったのであります。この「青んぼ」という雑誌については、 いろいろと、なつかしく、また噴き出すような思い出が、あるのですけれど、きょうは、なんだか、めんどうくさく、この三番目の兄が、なくなった頃の話をし て、それでおわかれ致したく思います。<br>  この兄は、なくなる二、三年まえから、もう寝たり起きたりでありました。結核菌が、からだのあちこちを虫食いはじめていたのでした。それでも、ずいぶん 元気で、田舎にもあまり帰りたがらず、入院もせず、戸山が原のちかくに一軒、家を借りて、同郷のWさん夫婦にその家の一間にはいってもらって、あとの部屋 は全部、自分で使って、のんきに暮していました。私は、高等学校へはいってからは、休暇になっても田舎へ帰らず、たいてい東京の戸塚の、兄の家へ遊びに 行って、そうして兄と一緒に東京のまちを歩きまわりました。兄は、ずいぶん嘘をつきました。銀座を歩きながら、<br> 「あッ、菊池寛だ。」と小さく叫んで、ふとったおじいさんを指さします。とても、まじめな顔して、そういうのですから、私も、信じないわけには、いかなかったのです。銀座の不二屋でお茶を飲んでいたときにも、<ruby><rb>肘</rb><rp>(</rp><rt>ひじ</rt><rp>)</rp></ruby>で 私をそっとつついて、佐々木茂索がいるぞ、そら、おまえのうしろのテエブルだ、と小声で言って教えてくれたことがありますけれど、ずっとあとになって、私 が直接、菊池先生や佐々木さんにお目にかかり、兄が私に嘘ばかり教えていたことを知りました。兄の所蔵の「感情装飾」という川端康成氏の短篇集の扉には、 夢川利一様、著者、と毛筆で書かれて在って、それは兄が、伊豆かどこかの温泉宿で川端さんと知り合いになり、そのとき川端さんから<ruby><rb>戴</rb><rp>(</rp><rt>いただ</rt><rp>)</rp></ruby>い た本だ、ということになっていたのですが、いま思えば、これもどうだか、こんど川端さんにお逢いしたとき、お伺いしてみようと思って居ります。ほんとうで あって、くれたらいいと思います。けれども私が川端さんから戴いているお手紙の字体と、それから思い出の中の、夢川利一様、著者、という字体とは、少し違 うようにも思われるのです。兄は、いつでも、無邪気に人を、かつぎます。まったく油断が、できないのです。ミステフィカシオンが、フランスのプレッシュウ たちの、お道楽の一つであったそうですから、兄にも、やっぱり、この<ruby><rb>神秘捏造</rb><rp>(</rp><rt>ミステフィカシオン</rt><rp>)</rp></ruby>の悪癖が、争われなかったのであろうと思います。<br>  兄がなくなったのは、私が大学へはいったとしの初夏でありましたが、そのとしのお正月には、応接室の床の間に自筆の掛軸を飾りました。半折に、「この春は、仏心なども出で、酒もあり、<ruby><rb>肴</rb><rp>(</rp><rt>さかな</rt><rp>)</rp></ruby>も あるをよろこばぬなり。」と書かれていて、訪問客は、みんな大笑いして、兄もにやにや笑っていましたが、それは、れいの兄のミステフィカシオンでは無く、 本心からのものだったのでしょうけれど、いつも、みんなを、かつぐものだから、訪問客たちも、ただ笑って、兄のいのちを懸念しようとはしないのでした。兄 は、やがて小さい<ruby><rb>珠数</rb><rp>(</rp><rt>じゅず</rt><rp>)</rp></ruby>を手首にはめて歩 いて、そうして自分のことを、愚僧、と呼称することを案出しました。愚僧は、愚僧は、とまじめに言うので、兄のお友だちも、みんな真似して、愚僧は、愚僧 は、と言い合い、一時は大流行いたしました。兄にとっては、ただ冗談だけでそんなことをしていたのでは無く、自身の肉体消滅の日時が、すぐ間近に迫ってい ることを、ひそかに知っていて、けれども兄の鬼面毒笑風の趣味が、それを素直に悲しむことを妨げ、かえって懸命に茶化して、しさいらしく珠数を<ruby><rb>爪繰</rb><rp>(</rp><rt>つまぐ</rt><rp>)</rp></ruby>っては人を笑わせ、愚僧もあの婦人には心が乱れ申したわい、お恥かしいが、まだ枯れて居らん証拠じゃのう、などと言い、私たちを誘って、高田の馬場の喫茶店へ<ruby><rb>蹌踉</rb><rp>(</rp><rt>そうろう</rt><rp>)</rp></ruby>と乗り込むのでした。この愚僧は、たいへんおしゃれで、喫茶店へ行く途中、ふっと、指輪をはめて出るのを忘れて来たことに気がつき、<ruby><rb>躊躇</rb><rp>(</rp><rt>ちゅうちょ</rt><rp>)</rp></ruby>なくくるりと廻れ右して家へ引きかえし、そうしてきちんと指輪をはめて、出直し、やあ、お待ちどおさま、と澄ましていました。<br>  私は大学へはいってからは、戸塚の、兄の家のすぐ近くの下宿屋に住み、それでも、お互い勉強の邪魔をせぬよう、三日にいちどか、一週間にいちど顔を合せ て、そのときには必ず一緒にまちへ出て、落語を聞いたり、喫茶店をまわって歩いたりして、そのうちに兄は、ささやかな恋をしました。兄は、その粋紳士風の 趣味のために、おそろしく気取ってばかりいて、女のひとには、さっぱり好かれないようでした。そのころ高田の馬場の喫茶店に、兄が内心好いている女の子が ありましたが、あまり旗色がよくないようで、兄は困って居りました。それでも、兄は<ruby><rb>誇</rb><rp>(</rp><rt>プライド</rt><rp>)</rp></ruby>の 高いお人でありますから、その女の子に、いやらしい色目を使ったり、下等にふざけたりすることは絶対にせず、すっとはいって、コーヒー一ぱい飲んで、すっ と帰るということばかり続けて居りました。或る晩、私とふたりで、その喫茶店へ行き、コーヒー一ぱい飲んで、やっぱり旗色がわるく、そのまま、すっと帰っ て、その帰途、兄は、花屋へ寄ってカーネーションと<ruby><rb>薔薇</rb><rp>(</rp><rt>ばら</rt><rp>)</rp></ruby>とを組合せた十円ちかくの大きな花束をこしらえさせ、それを抱えて花屋から出て、何だかもじもじしていましたので、私には兄の気持が全部わかり、身を躍らしてその花束をひったくり<ruby><rb>脱兎</rb><rp>(</rp><rt>だっと</rt><rp>)</rp></ruby>の如くいま来た道を駈け戻り喫茶店の扉かげに、ついと隠れて、あの子を呼びました。<br> 「おじさん(私は兄を、そう呼んでいました。)を知ってるだろう? おじさんを忘れちゃいけない。はい、これはおじさんから。」口早に言って花束を手渡し てやっても、あの子はぼんやりしていますので、私は、矢庭にあの子をぶん殴りたく思いました。私まで、すっかり元気がなくなり、それから、ぶらぶら兄の家 へ行ってみましたら、兄は、もうベッドにもぐっていて、なんだか、ひどく不機嫌でした。兄は、そのとき、二十八歳でした。私は六つ下の二十二歳でありまし た。<br>  そのとしの、四月ごろから、兄は異常の情熱を<ruby><rb>以</rb><rp>(</rp><rt>もっ</rt><rp>)</rp></ruby>て、 制作を開始いたしました。モデルを家に呼んで、大きいトルソオに取りかかった様子でありました。私は、兄の仕事の邪魔をしたくないので、そのころは、あま り兄の家を訪ねませんでした。いつか夜、ちょっと訪ねてみたら兄は、ベッドにもぐっていて、少し頬が赤く、「もう夢川利一なんて名前は、よすことにした。 堂々、辻馬桂治(兄の本名)でやってみるつもりだ。」と兄にしては、全く珍らしく、少しも茶化さず、むきになって言って聞かせましたので、私は急に泣きそ うになりました。<br>  それから、<ruby><rb>二月</rb><rp>(</rp><rt>ふたつき</rt><rp>)</rp></ruby>経っ て、兄は仕事を完成させずに死んでしまいました。様子が変だとWさん御夫妻も言い、私も、そう思いましたので、かかりのお医者に相談してみましたら、もう 四五日とお医者は平気で言うので、私は仰天いたしました。すぐに、田舎の長兄へ電報を打ちました。長兄が来るまでは、私が兄の傍に寝て二晩、のどにからま る<ruby><rb>痰</rb><rp>(</rp><rt>たん</rt><rp>)</rp></ruby>を指で除去してあげました。長兄が来 て、すぐに看護婦を雇い、お友だちもだんだん集り、私も心強くなりましたが、長兄が見えるまでの二晩は、いま思っても地獄のような気がいたします。暗い電 気の下で兄は、私にあちこちの引き出しをあけさせ、いろいろの手紙や、ノオトブックを破り棄てさせ、私が、言いつけられたとおり、それをばりばり破りなが らめそめそ泣いているのを、兄は不思議そうに眺めているのでした。私は、世の中に、たった私たち二人しかいないような気がいたしました。<br>  長兄や、お友だちに、とりかこまれて、息をひきとるまえに、私が、<br> 「兄さん!」と呼ぶと、兄は、はっきりした言葉で、ダイヤのネクタイピンとプラチナの鎖があるから、おまえにあげるよ、と言いました。それは嘘なのです。兄は、きっと死ぬる際まで、<ruby><rb>粋紳士風</rb><rp>(</rp><rt>プレッシュウ</rt><rp>)</rp></ruby>の趣味を捨てず、そんなはいからのこと言って、私をかつごうとしていたのでしょう。無意識に、お得意の<ruby><rb>神秘捏造</rb><rp>(</rp><rt>ミステフィカシオン</rt><rp>)</rp></ruby>をやっていたのでありましょう。ダイヤのネクタイピンなど、無いのを私は知って居りますので、なおのこと、兄の<ruby><rb>伊達</rb><rp>(</rp><rt>だて</rt><rp>)</rp></ruby>の気持ちが悲しく、わあわあ泣いてしまいました。なんにも作品残さなかったけれど、それでも水際立って一流の芸術家だったお兄さん。世界で一ばんの美貌を持っていたくせに、ちっとも女に好かれなかったお兄さん。<br>  死んだ直後のことも、あれこれ書いてお知らせするつもりでありましたが、ふと考えてみれば、そんな悲しさは、私に限らず、誰だって肉親に死なれたときには味うものにちがいないので、なんだか私の特権みたいに書き誇るのは、読者にすまないことみたいで、気持ちが急に<ruby><rb>萎縮</rb><rp>(</rp><rt>いしゅく</rt><rp>)</rp></ruby>してしまいました。ケイジ、ケサ四ジ、セイキョセリ。という電文を、田舎の家にあてて頼信紙に書きしたためながら、当時三十三歳の長兄が、何を思ったか、急に手放しで<ruby><rb>慟哭</rb><rp>(</rp><rt>どうこく</rt><rp>)</rp></ruby>をはじめたその姿が、いまでも私の痩せひからびた胸をゆすぶります。父に早く死なれた兄弟は、なんぼうお金はあっても、可哀想なものだと思います。<br>

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