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I can speak」(2007/02/11 (日) 12:54:43) の最新版変更点

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くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、<ruby><rb>陋巷</rb><rp>(</rp><rt>ろうこう</rt><rp>)</rp></ruby>の内に、見つけし、となむ。<br>  わが歌、声を失い、しばらく東京で無為徒食して、そのうちに、何か、歌でなく、<ruby><rb>謂</rb><rp>(</rp><rt>い</rt><rp>)</rp></ruby>わば「生活のつぶやき」とでもいったようなものを、ぼそぼそ書きはじめて、自分の文学のすすむべき<ruby><rb>路</rb><rp>(</rp><rt>みち</rt><rp>)</rp></ruby>すこしずつ、そのおのれの作品に依って知らされ、ま、こんなところかな? と多少、自信に似たものを得て、まえから腹案していた長い小説に取りかかった。<br>  昨年、九月、甲州の<ruby><rb>御坂</rb><rp>(</rp><rt>みさか</rt><rp>)</rp></ruby>峠頂上の天下茶屋という茶店の二階を借りて、そこで少しずつ、その仕事をすすめて、どうやら百枚ちかくなって、読みかえしてみても、そんなに悪い出来ではない。あたらしく力を得て、とにかくこれを完成させぬうちは、東京へ帰るまい、と<ruby><rb>御坂</rb><rp>(</rp><rt>みさか</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>木枯</rb><rp>(</rp><rt>こがらし</rt><rp>)</rp></ruby>つよい日に、勝手にひとりで約束した。<br>  ばかな約束をしたものである。九月、十月、十一月、御坂の寒気堪えがたくなった。あのころは、心細い夜がつづいた。どうしようかと、さんざ迷った。自分 で勝手に、自分に約束して、いまさら、それを破れず、東京へ飛んで帰りたくても、何かそれは破戒のような気がして、峠のうえで、途方に暮れた。甲府へ降り ようと思った。甲府なら、東京よりも温いほどで、この冬も大丈夫すごせると思った。<br>  甲府へ降りた。たすかった。変なせきが出なくなった。甲府のまちはずれの下宿屋、日当りのいい一部屋かりて、机にむかって坐ってみて、よかったと思った。また、少しずつ仕事をすすめた。<br>  おひるごろから、ひとりでぼそぼそ仕事をしていると、わかい女の合唱が聞えて来る。私はペンを休めて、耳傾ける。下宿と小路ひとつ<ruby><rb>距</rb><rp>(</rp><rt>へだ</rt><rp>)</rp></ruby>て製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。鶏群の<ruby><rb>一鶴</rb><rp>(</rp><rt>いっかく</rt><rp>)</rp></ruby>、そんな感じだ。いい声だな、と思う。お礼を言いたいとさえ思った。工場の<ruby><rb>塀</rb><rp>(</rp><rt>へい</rt><rp>)</rp></ruby>をよじのぼって、その声の主を、ひとめ見たいとさえ思った。<br>  ここにひとり、わびしい男がいて、毎日毎日あなたの唄で、どんなに救われているかわからない、あなたは、それをご存じない、あなたは私を、私の仕事を、どんなに、けなげに、はげまして<ruby><rb>呉</rb><rp>(</rp><rt>く</rt><rp>)</rp></ruby>れたか、私は、しんからお礼を言いたい。そんなことを書き散らして、工場の窓から、<ruby><rb>投文</rb><rp>(</rp><rt>なげぶみ</rt><rp>)</rp></ruby>しようかとも思った。<br>  けれども、そんなことして、あの女工さん、おどろき、おそれてふっと声を失ったら、これは困る。無心の唄を、私のお礼が、かえって濁らせるようなことがあっては、罪悪である。私は、ひとりでやきもきしていた。<br>  恋、かも知れなかった。二月、寒いしずかな夜である。工場の小路で、酔漢の荒い言葉が、突然起った。私は、耳をすました。<br>  ——ば、ばかにするなよ。何がおかしいんだ。たまに酒を呑んだからって、おらあ笑われるような覚えは<ruby><rb>無</rb><rp>(</rp><rt>ね</rt><rp>)</rp></ruby>え。 I can speak English. おれは、夜学へ行ってんだよ。姉さん知ってるかい? 知らねえだろう。おふくろにも内緒で、こっそり夜学へかよっているんだ。偉くならなければ、いけない からな。姉さん、何がおかしいんだ。何を、そんなに笑うんだ。こう、姉さん。おらあな、いまに出征するんだ。そのときは、おどろくなよ。のんだくれの弟 だって、人なみの働きはできるさ。嘘だよ、まだ出征とは、きまってねえのだ。だけども、さ、I can speak English. Can you speak English? Yes, I can. いいなあ、英語って奴は。姉さん、はっきり言って呉れ、おらあ、いい子だな、な、いい子だろう? おふくろなんて、なんにも判りゃしないのだ。……<br>  私は、障子を少しあけて、小路を見おろす。はじめ、白梅かと思った。ちがった。その弟の白いレンコオトだった。<br>  季節はずれのそのレンコオトを着て、弟は寒そうに、工場の塀にひたと<ruby><rb>脊中</rb><rp>(</rp><rt>せなか</rt><rp>)</rp></ruby>をくっつけて立っていて、その塀の上の、工場の窓から、ひとりの女工さんが、上半身乗り出し、酔った弟を、見つめている。<br>  月が出ていたけれど、その弟の顔も、女工さんの顔も、はっきりとは見えなかった。姉の顔は、まるく、ほの白く、笑っているようである。弟の顔は、黒く、 まだ幼い感じであった。I can speak というその酔漢の英語が、くるしいくらい私を撃った。はじめに言葉ありき。よろずのもの、これに拠りて成る。ふっと私は、忘れた歌を思い出したような気が した。たあいない風景ではあったが、けれども、私には忘れがたい。<br>  あの夜の女工さんは、あのいい声のひとであるか、どうかは、それは、知らない。ちがうだろうね。
<br>  くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、<ruby><rb>陋巷</rb><rp>(</rp><rt>ろうこう</rt><rp>)</rp></ruby>の内に、見つけし、となむ。<br>  わが歌、声を失い、しばらく東京で無為徒食して、そのうちに、何か、歌でなく、<ruby><rb>謂</rb><rp>(</rp><rt>い</rt><rp>)</rp></ruby>わば「生活のつぶやき」とでもいったようなものを、ぼそぼそ書きはじめて、自分の文学のすすむべき<ruby><rb>路</rb><rp>(</rp><rt>みち</rt><rp>)</rp></ruby>すこしずつ、そのおのれの作品に依って知らされ、ま、こんなところかな? と多少、自信に似たものを得て、まえから腹案していた長い小説に取りかかった。<br>  昨年、九月、甲州の<ruby><rb>御坂</rb><rp>(</rp><rt>みさか</rt><rp>)</rp></ruby>峠頂上の天下茶屋という茶店の二階を借りて、そこで少しずつ、その仕事をすすめて、どうやら百枚ちかくなって、読みかえしてみても、そんなに悪い出来ではない。あたらしく力を得て、とにかくこれを完成させぬうちは、東京へ帰るまい、と<ruby><rb>御坂</rb><rp>(</rp><rt>みさか</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>木枯</rb><rp>(</rp><rt>こがらし</rt><rp>)</rp></ruby>つよい日に、勝手にひとりで約束した。<br>  ばかな約束をしたものである。九月、十月、十一月、御坂の寒気堪えがたくなった。あのころは、心細い夜がつづいた。どうしようかと、さんざ迷った。自分で勝手に、自分に約束して、いまさら、それを破れず、東京へ飛んで帰りたくても、何かそれは破戒のような気がして、峠のうえで、途方に暮れた。甲府へ降りようと思った。甲府なら、東京よりも温いほどで、この冬も大丈夫すごせると思った。<br>  甲府へ降りた。たすかった。変なせきが出なくなった。甲府のまちはずれの下宿屋、日当りのいい一部屋かりて、机にむかって坐ってみて、よかったと思った。また、少しずつ仕事をすすめた。<br>  おひるごろから、ひとりでぼそぼそ仕事をしていると、わかい女の合唱が聞えて来る。私はペンを休めて、耳傾ける。下宿と小路ひとつ<ruby><rb>距</rb><rp>(</rp><rt>へだ</rt><rp>)</rp></ruby>て製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。鶏群の<ruby><rb>一鶴</rb><rp>(</rp><rt>いっかく</rt><rp>)</rp></ruby>、そんな感じだ。いい声だな、と思う。お礼を言いたいとさえ思った。工場の<ruby><rb>塀</rb><rp>(</rp><rt>へい</rt><rp>)</rp></ruby>をよじのぼって、その声の主を、ひとめ見たいとさえ思った。<br>  ここにひとり、わびしい男がいて、毎日毎日あなたの唄で、どんなに救われているかわからない、あなたは、それをご存じない、あなたは私を、私の仕事を、どんなに、けなげに、はげまして<ruby><rb>呉</rb><rp>(</rp><rt>く</rt><rp>)</rp></ruby>れたか、私は、しんからお礼を言いたい。そんなことを書き散らして、工場の窓から、<ruby><rb>投文</rb><rp>(</rp><rt>なげぶみ</rt><rp>)</rp></ruby>しようかとも思った。<br>  けれども、そんなことして、あの女工さん、おどろき、おそれてふっと声を失ったら、これは困る。無心の唄を、私のお礼が、かえって濁らせるようなことがあっては、罪悪である。私は、ひとりでやきもきしていた。<br>  恋、かも知れなかった。二月、寒いしずかな夜である。工場の小路で、酔漢の荒い言葉が、突然起った。私は、耳をすました。<br>  ——ば、ばかにするなよ。何がおかしいんだ。たまに酒を呑んだからって、おらあ笑われるような覚えは<ruby><rb>無</rb><rp>(</rp><rt>ね</rt><rp>)</rp></ruby>え。I can speak English.おれは、夜学へ行ってんだよ。姉さん知ってるかい? 知らねえだろう。おふくろにも内緒で、こっそり夜学へかよっているんだ。偉くならなければ、いけないからな。姉さん、何がおかしいんだ。何を、そんなに笑うんだ。こう、姉さん。おらあな、いまに出征するんだ。そのときは、おどろくなよ。のんだくれの弟だって、人なみの働きはできるさ。嘘だよ、まだ出征とは、きまってねえのだ。だけども、さ、Ican speak English. Can you speak English? Yes, I can.いいなあ、英語って奴は。姉さん、はっきり言って呉れ、おらあ、いい子だな、な、いい子だろう? おふくろなんて、なんにも判りゃしないのだ。……<br>  私は、障子を少しあけて、小路を見おろす。はじめ、白梅かと思った。ちがった。その弟の白いレンコオトだった。<br>  季節はずれのそのレンコオトを着て、弟は寒そうに、工場の塀にひたと<ruby><rb>脊中</rb><rp>(</rp><rt>せなか</rt><rp>)</rp></ruby>をくっつけて立っていて、その塀の上の、工場の窓から、ひとりの女工さんが、上半身乗り出し、酔った弟を、見つめている。<br>  月が出ていたけれど、その弟の顔も、女工さんの顔も、はっきりとは見えなかった。姉の顔は、まるく、ほの白く、笑っているようである。弟の顔は、黒く、まだ幼い感じであった。I can speakというその酔漢の英語が、くるしいくらい私を撃った。はじめに言葉ありき。よろずのもの、これに拠りて成る。ふっと私は、忘れた歌を思い出したような気がした。たあいない風景ではあったが、けれども、私には忘れがたい。<br>  あの夜の女工さんは、あのいい声のひとであるか、どうかは、それは、知らない。ちがうだろうね。

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