義村翼

2010年10月21日  卒業中間報告書

7AHW1216 義村 翼
指導教員 小貫 大輔先生

「日本のお産事情について」

はじめに
  1980年代頃の日本のお産事情は99%が施設内(主に病院や診療所)での出産であった。この様な背景が、現代の日本のお産において、産婦と医者の意見の 食い違いという問題を引き起こしている。??????????????本稿ではどうゆう課程をへていまの現状になったのか、そして現状の問題点について 考えていきたい。

第1章 
第1節
  日本は1950年では95%が家庭分娩だったのに対して1980年代には99%施設内分娩と、たった30年間で大きくお産の形がかわった。それには、戦後 アメリカが日本の政策の実権を握っていた事が大きく関わっている。当時アメリカには助産師という制度はなく、助産も病院がするというアメリカ系の医療シス テムが日本に導入された。
第2節  我々の「病院=安全」という心の変化
 アメリカによる日本の保健、医療システムの整備は、日本国民の信頼をもたらした。そうして人々の病院意識が高まり、一方で前々から行われて来ていた日本の家庭分娩はマイナスイメージがあるものとして、どんどん排除されていった。


第2章
第1節 病院でのお産に問題点
  病気を治す病院での出産は「生ませてもらう」という意識変化し、「先生、自分で生みたい。」から「先生よろしくお願いします。」へと大きな意識変化をもた らした。そして、医療現場という忙しい現場のため説明不足や産後直後に母子を別けるなどの問題で産後の妊婦さんのお産に対する満足度が大きな施設である程 低い。

第2節 実際に日本の助産に不満を持つブラジル人
  私の知り合いでホザーナという4児の母がいる。彼女は今妊娠していて大きな問題を抱えている。彼女は最初の2人は帝王切開で産み3人目は知り合いの助産師 さんに手伝ってもらい4人目は自宅で産んだという出産歴の持ち主だ。そして彼女は今5人目の子を自然分娩を強く希望している。しかし、ブラジルでは良いと いわれるものが日本の長野では医者にダメと言われてしまった。

第3節 ブラジル研修で
  実際に私がブラジルの病院に助産の研修に行ったときに医者によるお産にこれでいいのかという疑問がわいた。例えばお産後すぐに妻子を離ればなれにしてしま う事。出産中に妊婦のお腹を押し子供を押し出そうとする医者に泣きながら抵抗する産婦。出産までの陣痛の間は誰も病室にいない。

第3章
第1節 良いお産とは
  では良いお産とはいったいなのか。「肉体的ケアでは、医者や病院のもつ知識や技術や安全性が一番いい。しかし、社会的心理的ケアをうけるには家族や友人 のなかで出産するのがベストだ。」初妊婦(バーバラK)の意見だが、その意識は人それぞれだ。例えばある地域で、ある村でこのようなお産が一番いいという 基準があるとすれば、それは文化といえよう。

第2節 アクティブバース
  今、アクティブバースという新しいお産がはやっている。これは分娩台の上で仰向けになって足を広げるものではなく、色々なポジションで出産するものだ。これはアメリカをわたって西洋からわたって来たものだが、実際には戦前アメリカが日本の政策の実権を握る前に日本の助産師が行っていたものにかなり似ている。これでもわかる様に日本の助産師もかなり高度な知識を持っていたといえよう。

おわりに
 日本のお産は戦後アメリカから影響をうけ大きな変化があった。それはその当時、人々に大きく安心な与えていた。しかし、その影響は現在そのお産がおおきな問題を起こしている。そうして、今人々は自然分娩への大きな関心が湧いている。





















TIOに出会ってから、たくさん自分の周りの流れが変わっていった。AO入試から始まって、今や助産師になりたいと夢をもつように・・・。
AOのプレゼンテーションでは、ホテルマンやスチュワーデスになりたいと言っていたのにね~。
 そしてたくさんの人との出会いがあってそれぞれの違いすぎる生き方は私の“日本人はこうである”っていうイメージを壊して、みんなが進む道に進まなくてもいいのだなと思うようになった。このようなことを、知れたのもすべてコニュミケーションだし、本当にコニュニケーションの大切さも同時に知った。しかし、最近なんだか実家に帰ってないせいか、母親との考え方の違いの大きさにびっくりすることがあった。ブラジルに6か月行ってくると言った時の話で、母は「死ぬかも知れないんだよ」と泣きながら私をとめようとした。「え!?死にゃしないだろ!!!」と思ったが、何も言わなかった。他にも、私が助産師になるため大学に出たら専門学校に行きたいと言ったら、母は「大学にいった意味あったの!?」と泣いた。なんで!?わたしは、大学に来てこんなにも素晴らしい経験や体験をして立派に助産師になろうという夢まで持っているのに、なぜ母は悲しむんだろ・・・!?」本当に意味がわからなかった。
 最近感じる。やっぱりおばあちゃんとままの世代からすると私の行動は信じられないようだ。ままは18歳でパパを見つけたから、あんまり自由な自分の生活をしてない。おばあちゃんの考えをそのまま受け継いでいる。一方ぱぱは、若いころ大学時代と会社は北海道から東京にでていて自由に生活していたせいか、私のどこまでも遠くにいってしまう行動を「パパが翼という名前をつけたからだ。しょうがないね~」という感じで自由にさせてくれている。相当考えの違いが夫婦間でもあるな~と思う。
 そんなわけだから、なにより親とのコニュニケーションはとっても大切なことがわかった。そして、私たちの家族とのコニュニケーション足りてないと思う。やっぱり、コニュニケーションは価値観の共有として何歳になっても怠ってはならないのね~。
 しかし、いま思い返すと母に話すときはいつも機嫌が悪くなる。なぜかというと、いいじゃん!って言わないからだ!
 「へ~~~~~~~~~~~~」それだけ!!!!!!!!!でも、裏で賛成してない気持ちがうかがえる。そうなっては、私も頑固はゆえ、「娘がこうやるって言ってるのだから、いやでも応援するっていってよ!!!!」といつも言う。
 だけど、やっぱり親の存在はでかくて、親が賛成してないといつまでも胸に引っ掛かってモヤモヤの原因になっている。コミュニケーション不足は、こんな問題も起こすのだな~。
最近こんなことを思う私でした~~。



授業の影響

20代は仕事をがんばる歳、つまりやりたいことやるべき!と考えて30代までには、仕事ができて、パーフェクトな女になって30代は、結婚してポンポンポ~~ンって出産して(3人ぐらいかな)いきたいね。そして家の仕事と育児は旦那と協力して、土日は家族でCAMPとか行く生活。これって最高っしょ★
 大学終わってからは自分の好きなことやろう。やっとすべてのやらなくちゃいけなかったものが終わったのだから。その代わり大変な目にあってもすべてが自分の責任だからね!








{{oi boa tarde!! eu nome e tsubasa. eu nasser no Hokkaido
どうも義村翼と申します。私は去年の10月から今年の4月までブラジルにボランティアに行ってきました。
そのおかげでブラジルが}}だ~~~~~~~~~いすき

大学卒業後は、看護学校に行ってから助産師の道に進んで行って、
その後はヨーロッパでさらに育児やお産の大切さについて勉強したいと思ってるんだ

私は一生社会の常識に囚われず、自分の道を
THE TSUBASA way を作っていきくよん~★

今の友とも一生つながって、SEX AND CITYみたいな中でいよ~ね~♪♪♪
みんながいる国まで飛んでいくよ!出張出産は任せてくれ!!hahah
なんて世界って最高でしょ!!!!
最終更新:2010年10月07日 12:00
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