夜…外にはすっかり闇が落ち、月はその上弦を細い雲に懸けている。
青年は頬杖をつき、部屋の窓から空を見上げた。
「そろそろカーテンも買わないとな」ぼんやりとそんなことを思う。

「マスター、お茶をどうぞ。」栗色の毛をした少女が澄んだ声で言い、
テーブルに湯飲みを置いた。「何を見ていたんですか?」
「特に何ということもないけど、まぁ月を見ていた。」マスターと呼ば
れた青年は茶を啜り、少女のほうに向きなおる。夕食を終えた後のこの
時刻、二人で茶を飲みながら向かい合っている時間は、青年にとって
特別だった。大学に行き、アルバイトをするという単調な日常は、彼の
心にさざ波すら起こさない。退屈で退屈で息が詰まる日々。数少ない友
人との雑談や、折にふれての飲み会も、心の底からは楽しく過ごせない。
子供のころはすべてが新鮮だった、何でも全身全霊で楽しめたのに、と
いう思いが、彼の心をさらに重苦しくしたのだった。
だが、少女との会話は別だった。脳にしみ込んだ鉛の重さが消えうせたかの
ように軽やかな気分になり、安らぎが心を優しく満たす。そこには異性への
ときめきも交じっているのだろうか、一日のうちで唯一彼が心待ちにする
時間だった。

「マスターは…月が好きですよね。よく眺めています。」
「綺麗だからね。何か落ち着くような気もする」再び月に目をやる。
「満月にはまだ遠いですね。あと20日くらいでしょうか」湯飲みを
持ち直し、少女も月を見る。赤と緑のオッドアイが月光を受けて輝く。
「蒼星石は、三日月より満月のほうが好き?」青年が尋ねる。
「そう、ですね。一分の欠けもなくて、少しの曇りもなくて…
 アリスの美しさはあのように完ぺきなのだろうかと、憧れます」
大きく開かれた眼は真直ぐに月をとらえている。
「僕たちはみな、アリスに届かなかった。三日月は時間とともに円く
 満ちるけど、僕たちは欠けたまま…」
悠久の時を生きるドール、至高の存在を目指す成長しない人形。青年は
少女らに課された宿命を思い起こした。この子は俺が老人になっても
今の姿のまま。俺が死んだとしても…。アリスになったとて、父に会い
に行くため俺のもとを離れるのだろう。
それでも…

「マスターはどうなんです?三日月と満月では」少女は青年に顔を向けた。
「三日月かな。」
なぜ?とでも言いたげに少女は首をかしげる。うなじにかかった短めの
髪が光を反射して輝いている。
「『完璧』は、どこか遠い存在みたいな感じだから」
言い終わってから青年は少女の顔を見た。そこには少し寂しげな眼をした
微笑みがあった。
「お茶…お代わり、淹れてきますね」少女はゆっくりと立ち上がり、キッ
チンへと向かう。少女の表情は、青年にはとても儚げに映った。

(儚いのは、限られた時しか一緒にいられない、俺のほうなのに)
薬缶のシュンシュンという音がかすかに聞こえてきた。