2007年4月21日(土)18:32
 ……えっと、どうしてここに居るんだっけ。それに、どうして僕は泣いてるんだっけ。

 夕暮れの街の中を僕はさまよい歩いていた。部活帰りの中学生とすれ違い、帰宅途中の
サラリーマンが通り過ぎ、何台もの自動車が走り去っていった。それぞれ、何かの目的を
持って動いている世界の中で僕はただ一人取り残されていた。立ち止まるとそのまま動け
なくなってしまいそうで、僕は少しずつどこへとも分からず歩いていた。
 逃げ出したくなったのは何でだっけ? すると見たくもなかった回想が僕の頭によみが
える。マスターの過去。卒業アルバム。寄せ書きのページ。そこに挟まった写真。写真。
写真。写真――
「うぁっ……ひっ……」
 堪えきれなくなって僕はついにうずくまってしまった。あの映像が――この眼に映った
あの写真が、どうしたって離れないんだ。楽しそうに、それこそ僕が見た事ないような顔
で笑うマスターと、女の人の写真。マスターは、昔の彼女だと言っていた。けれども――
僕はあんなふうに、マスターを心の底から笑わせられるような女性ではなかった。それな
のに――
 マスターが本当に今でも愛しているのはあの人なんだ。それなのに、僕はマスターに愛
を強制した。勝手に思い上がって、勝手に愛して欲しいだなんて――そんな事、思っては
いけなかったんだ。そんな事を思い上がってしまった僕は今、マスターの前から消えるべ
き存在なんだ。
 ふと空を見上げると、空は夕暮れの赤から夜の青へと変わり始めていた。二色の混じっ
た紫の空が地面にうずくまった僕を見下ろしていた。行く当てもなくどうすればよいのだ
ろうと考えていた僕にとって、その紫は天啓に思えた。

 ――ああ、あの空に身を投げたら、どんなに気持ちいいだろう。

 僕は立ち上がった。そして歩き出した。この空の色が変わらぬうちに、あの空の元へ飛
び込もう。どこか見晴らしのいい場所を探そう。お別れに、マスターのところにメールを
一つ打つといい。余計な言葉は要らない、一言でいい。「さよなら、ありがとう」――

 と、その瞬間僕は背後から鳴ったベルに驚いてすぐ傍の壁によけた。後ろから自転車で
来たのは部活帰りの高校生だった。慌ててよけた弾みで僕は壁に身体をぶつけた。ぶつけ
た拍子にiPodが再生され、音楽が流れ出した。このイントロは確か――ART-SCHOOLの
「SWAN SONG」だった。
 イントロが流れ出し、ドラムの音がはじけ出し、それからギターが入る。透明感ある前
奏。やがてボーカルが歌い出す。『腐り切った感情で僕は今日も生きている』……腐り切
った感情。それは僕の本心そのものだった。僕は今日もそんな感情を抱いて生きていた。
 この先の流れも僕は全部知っていた。だからこそ聞くのが怖かった。けれども僕は音楽
を止められなかった。――それが僕のすがりつける唯一のものだったから。そしてボーカ
ルはこう歌う。『どうでもいい、でも一度心の底から笑ってみたいんです』
 ああ……僕の脳裏にマスターの笑顔が、そして少し前までの僕の笑顔がよみがえる。誰
かにも、「今まで貴方はそんな風に笑った事がなかった」と言われたっけ。――もう一度、
もう一度だけ、僕は心の底から笑ってみたいんです――神様。
 やがて歌は佳境に入る。いつしか僕は歌を口ずさんでいた。『苦しくて逃げ出して心な
らとっくに焼け落ちた』……喉元が熱くなる。胸の奥が、刺さるように溶け出すように響
く。『はいつくばって、みっともないな』――僕はマスターの事で精一杯で、マスターに
踊らされていた。みっともなかった、けれども――『でも今日はそんな風に思うんです。』

 いつしか僕はまた涙を流していた。視界を潤ませ、喉をしゃくりあげ、心を溶かしてい
った。この涙は最初に流れた贖罪の涙とは違う、これは浄化の涙だった。錆びて汚れて壊
れ果てた心を洗い流す、浄化の涙だった。
 『機械のように呼吸をする』――それはマスターと出会う前の僕の生き方だった。与え
られた作業を忠実にこなし、必要最低限の報酬だけ貰って、感情を持たずに生きる。それ
が今、僕はこんなにも欲張りになってしまった。生きる事が目的で、それ以外はどうでも
よかった、けれども――『でも一度死ぬほど誰かに焦がれてみたいんです』……僕にとっ
て、それがマスターだった。初めて見つけた大切なもの――それを必死で求めて、独占欲
と共に僕はもがき続けた。『腐り切った感情でもがく度に堕ちていく』
 真実を言い当てられ、何も言い返せず、苦しいはずなのにこの歌は何故か救いに思えた。
水槽のように透明感溢れるサウンドの中へ僕の苦しみ、痛み、汚さ、憎しみ――様々な感
情が溶け出していくように思えた。そしてこの歌はその感情を全て受け止めてくれるよう
にも思えた。そして曲の終わり、ボーカルはこう繰り返した。『笑っていたいんだ』笑っ
ていたいんだ、と。

 音楽が終わった。その途端腕の感触が僕を包み込んだ。急に抱きしめられた僕はバラン
スを崩してそのまま倒れこんだ。「蒼星石! 蒼星石っ、そうせいせきぃ……」うめくよ
うに、ささやくように何度も僕の名を繰り返す。この包み込むような、優しい声。熱い腕
の感触。腕に走る血管に涙で濡れた目を向けながら、僕は声の主に振り返った。……優し
いあの人の、苦しげな顔があった。
「ごめんな……あんな写真を見せて、俺が悪かったんだ、ごめん……」
「そ、そんな違うって! 僕が、僕が勝手に逃げ出したんだ。それに……」それに、僕は
もうじき居なくなる。……いなくなる? 本当に? 『笑っていたいんだ』……急にあの
リフレインが頭の片隅によみがえる。
 マスターは優しく僕のイヤホンを外すと、耳元にキスをした。そしてそのままささやく。
「お前が必要なんだ、だからもう居なくならないでくれ」
 僕は困惑する。「僕はいらない存在なんだってば……マスターだって、あの女の人が、
今でも離れないんでしょ? だからマスターは僕なんかじゃなくて、あの人と早く幸せに
なって。僕は居なくなるから――」

「あいつは死んだんだよ」
 マスターは言った。

「え、どういう――」「あいつは昔、自殺したんだ。もうこの世には居ないんだ」それじ
ゃあ僕は――「同じ過ちを繰り返したくないってのもある。でも今の俺はそれだけじゃな
いんだ」それだけじゃない、ってどういう事なんだろう?
「ごめんな、今まで、本当の事が言えなくて。……怖かったんだ。お前をあいつの代わり
にしてるように思えて、代用品として利用してるかのようで、申し訳なくて」「……利用
でも、いいんだよ。使って、使い尽くして、使い終わったら今みたいにポイって捨ててい
いんだよ、僕はそれでも――」「駄目なんだよ!」マスターが急に怒鳴った。
「駄目なんだよ! それじゃあ――それじゃあ前と同じじゃねえか! 俺はもう誰も死な
せたくないんだ! 俺の周りで誰一人として死なせたくないんだ! まして蒼星石を失っ
たら……生きていけないんだよ、俺は」そう言ってマスターは僕の方を見た。「俺は、お
前じゃなきゃ駄目なんだ。過去でも未来でもなく、今の蒼星石じゃなきゃ駄目なんだ」
 マスター……僕は思わず彼の胸にすがりついた。マスターは僕を強く抱きしめ、僕の頭
を起こして、くちづけをした。永久に続くかのようなキスだった。その間ずっと、何かを
確かめ合うかのようにお互いの感触を感じ合った。このまま、この人に溶かされていい―
―この人の為に生きよう、僕は生きよう、そう強く思った。誓いのキスだった。

 空はもうすっかり暗くなっていて、三日月が斜めに浮かんでいた。僕はマスターと手を
繋いで家へと歩いた。今までマスターも一人だったのかもしれない。僕だって一人だった。
けれども――今は二人で居られる。ここに、居られる。居ていいんだ、居て欲しいんだ―
―僕はあのキスの中でそれを実感した。
「今日はこのまま、晩御飯買って帰ろっか?」
 ――そう言って笑ったあなたの笑顔を、僕は絶対忘れない。だって、その笑顔は、余り
にも自然で。あの写真がかすむ程に自然な笑顔で。つられて僕も笑った。――ああ、僕も
笑えるんだ。笑っていいんだ。だったら僕も……

 ――笑っていたいんだ。これからもずっと。

(終劇)

マスターのメモ
 SWAN SONG /ART-SCHOOL
 4th MiniAlbum 「SWAN SONG」(Disc1,Disc2)収録。