~Pool~
「マスター?」
呼んでみるが返事が無い。
ふと見ると、部屋の隅にあるソファの上でマスターは転寝していた。
きっと昨日、夜遅くまで仕事をしていたからだろう。
その束の間の休息を邪魔しないようにと気を付けつつ、洗濯物を取り込むことにした。
マスターは今頃どんな夢を見ているのだろう――。
虹色の海の上で音楽でも聴いてるの?それとも何処か遠い世界を冒険してるのかな?
乾いた洗濯物をカゴに入れながら、僕はボーっとそんなことを考えていた。

海――。
そう、ここは海の上。
ベランダがデッキへと変わる。
そして全身に風を受けながら、舟は南へと――。
そんな素敵な夢の中――。
その夢の何処かに僕もいて、マスターと一緒に――。
「何考えてるんだろ・・・」
馬鹿馬鹿しいと思って自嘲しつつ、僕は洗濯物を畳み始める。

洗濯物を畳みながら、ふと隣で転寝しているマスターを見る。
手が無意識の内にマスターの髪に触れる。
「あ・・・」
何をやっているんだろう。疲れて眠っているのを起こしてしまっては可哀想だ。
僕って本当に馬鹿――。
けれども、その寝顔を見ていると何故か胸が高鳴ってしまう――。

時計を見ると既に16時を回っている。
外はすっかり黄昏て、夕暮れ時だ。
そんな中、僕は胸の高鳴りを抑えようと別の事を考えることにした。
けれど、頭の中に浮かんだのはさっきの夢の続き――。
帆を畳んだ舟は波間をゆらゆらと漂う。
夕日に照らされながら、僕とマスターは二人で海の上を――。
高鳴るこの胸を抑えるには、波は静かで穏やか過ぎて――。
「うぅ・・・どうしてもマスターの事を考えちゃう・・・」
もしここに翠星石がいたりしたら、きっと"何をボーっとしてるですか!"とかなんとか言われるかもしれない。
そう考えると今の自分が少しおかしく思えてきて、僕は思わず笑ってしまった。

海の底で丸に、四角に、変形しながら揺れる太陽。
僕達はその遥か上で息を潜めながら二人きりの時間を楽しんでいる。
そんな理想的な夢――。
けれども、そんなものは僕が考えた空想に過ぎない。
ジリリリリ――というキッチンタイマーの音で、ふと夢から現実へと引き戻される。
「またボーっとして・・・僕、何してるんだろ・・・」
はぁ、とため息をついてから自分がマスターの手を握り締めていることに気付く。
幸運なことに、マスターはまだスースーと寝息を立てて眠っていた。
もし――。もし今、マスターが目を覚ましたなら――。
きっとこんな幸せな夢を見ていたとしても、僕のせいで夢は壊れてしまっていたことだろう。
そう考えると、やはり起きなくて良かった――と、僕は胸を撫で下ろした。
それから僕はキッチンタイマーを止め、晩御飯の支度を終えると再びソファに腰を下ろす。
そして、少しの間――目を閉じ、一時の夢へと誘われることにした――。

貴方と二人、広い海へ――。
二人だけの夢の海へ――。
心を投げ出す――。
一時の幸せな夢――。



~遠い青色~
窓の外の風景がゆっくりと移り変わっていく。
車は町を抜けて、田舎道をゆっくりと走っている。
「それにしても、なんで突然海が見たいだなんて?」
助手席に座る蒼星石に話しかける。
「マスターと一緒に一度海に行ってみたかったんだ」
それからせっかくの休日なのにごめんね、と蒼星石は付け足した。
「別にいいよ、海か・・・。久しぶりだなぁ」
遠くに青い景色が広がっている。
海まであと少し――。
車はゆっくりと走り続けている。

季節外れだからだろうか。人もまばらな海。
けれども、隣にいる蒼星石は嬉しそうに笑っていた。
潮の香りが微かに漂ってきて、肩をかすめるように風が吹いた。
「あ・・・」
風にあおられて帽子が飛んでいく。
「失くすと危ないぞ」
俺は帽子を拾いあげると、蒼星石に被せてやる。
「ありがとう、マスター」
頭の上の帽子を整えながら、蒼星石はまた嬉しそうに笑った。

それから、ただゆったりとした時間を過ごした。
特にすることもないのだけれど、隣に彼女がいるだけで楽しいと思った。
ゆっくりと波間に沈んで行く夕日を見送る。
「綺麗だね、マスター」
蒼星石が小さく呟く。
「うん」
そう言いながらも、俺は隣にいる蒼星石の横顔ばかりを見つめていた。
波のように寄せる雲は、夕日を浴びて海と同じように紅く輝いていた。
胸に感じた心地良い痛み。きっと、それは――。

ただ彼女と二人で海を見つめている。
それだけでも幸せだった。
全ての時間と引き換えにしてでも、"今"この瞬間が永遠に続けばいいのに――。
「マスター、また一緒に・・・来てくれる?」
蒼星石が聞いてくる。
そして俺は当然のように答える――。
「うん、また一緒に・・・な」
遠く沈む夕日を見送り、俺達は車に戻る。

「マスター、ごめんね・・・」
助手席の蒼星石が申し訳なさそうに謝る。
「ううん、蒼星石と一緒だから楽しかったよ」
「・・・ありがとう」
蒼星石はそう言って微笑むと、疲れたのだろうか――そのまま眠ってしまった。
車内のラジオから曲名は思い出せないが、聞き慣れた懐かしい歌が聞こえてくる。
車はゆっくりと夜道を走っていく。
我が家へと向かって――。
月明かりの下、ゆっくりと――。



~Trance Transistor Table Radio~
月が煌々と空高く光る夜。
ベランダで夜風を受けながら空を見上げる。
都会の夜だというのに、とても静かだ。
「これで・・・暖かい?」
マスターが持ってきた毛布に二人で包まり、ココアを飲む。
「ん・・・あったかいよ、ありがとうマスター」
「蒼星石もココア、ありがとうね」
そう言ってマスターが小さなラジオのスイッチを入れる。
ふと隣の家の窓に目が行った。隣の家のテレビからはニュースや天気予報が流れているようだ。
あの人はこっちに気付いていないようだ。
マスターと二人で毛布に包まってる姿を見られたら、と思うとちょっとだけドキドキした。

"Io sono prigioniera~"
ラジオからは恐らく知らない歌手の曲だろうか。
冷たく透き通るような声で遠い異国の愛をイメージしたような歌が流れてくる。
「蒼星石、見てごらん」
突然、マスターが空を指差しながら言う。
「わぁ・・・綺麗・・・」
僕が見上げると、遠くにプラネタリウムのような星空が広がっていた――。

二人で毛布に包まったまま、ただ星空を見上げる――。
「明日も・・・晴れるかな?」
短い沈黙を破るように僕が言う。
「きっと晴れるさ、そしたら・・・また星を見ようね」
マスターは空を見上げたまま答えた。
「うん、きっとだよ・・・。きっと・・・」
それから、僕は魅入られるように再び空へと視点を戻した。
「・・・マスター?」
「うん?」
"こんなにも素晴らしい宝物をプレゼントしてくれて――ありがとう"
「ううん、何でもない」
遠い空の向こう。煌々とした美しい星月夜。
夜の大気を震わせながら、ラジオからは小さく音楽が聞こえてくる。
明日も晴れますように――。



~サリーのビー玉~
淡く青い夜明けがやってくる――。
けれども、貴方はずっとガラス越しに外を見ているだけ――。

「マスター、まだ起きていたんですか?ちゃんと寝ないと、風邪を引きますよ?」
ギィっと扉を開けて、その隙間から彼に声をかける。
けれど、彼はずっと窓から外を見ているだけ。
僕の声に振り向いてくれることはなかった――。
「マスター、毛布をどうぞ」
僕は座っている彼の膝に毛布をかける。
いつかの――幸せな日々の幻想を追いながら――。
「それじゃあ、おやすみなさい。マスター」
僕はいつものように夜の挨拶を済ませると、眠りに就く――。

夢を見た――。
夢の中の彼は無邪気に笑っていた。
「蒼星石も見てごらん。とっても綺麗だよ」
あどけない表情で、そう言いながら彼はキラキラと輝くビー玉を見せてくれた。
「とっても綺麗ですね、マスター」
彼の手のひらの上にあるビー玉を眺めながら僕も微笑む。
それはとても他愛ないけれど、とても幸せな夢――。

彼は外を眺めながら虚ろな瞳でずっと同じことを呟き続けている。
「僕のビー玉、僕のビー玉・・・」
誰かが隠してしまったビー玉。
けれど、それを彼が探そうとすることはなかった――。
とても大切なビー玉だったのに――。
「僕のビー玉、僕のビー玉・・・」
ただ繰り返すように呟き続ける声――。
探してあげられなかったビー玉。
「僕が・・・見つけてあげるからね。マスター・・・」
ただうわ言のように呟き続ける彼に向かって、僕は言った。

夜が完全に明ける。
朝露に震えながら、庭先の花から伝い落ちた。
「マスター、おはようございます」
僕は一晩中、椅子の上で窓の外を眺め続けていた彼に向かって朝の挨拶をする。
「マスター、ご飯が出来ましたよ」
スプーンを使って、彼に朝食を食べさせる。
「口を拭きましょうね・・・」
それから汚れてしまった口をナプキンで丁寧に拭いてやる。
いつからだろう――。こんな風になってしまったのは――。

夢の始まりは白昼夢――。
大きなガラス窓に真っ白い壁。
ここは何処だろう――。
「僕のビー玉、僕の・・・」
窓際で外を眺めながら、男の子が何か呟いている。
ああ、この子はきっと子供の頃の――。
「マスター・・・」
小さく呟くが、彼にその声が届くことはなかった。
キラキラと籠の中で光り輝くビー玉。
けれど、それに触れることは出来ず――。
優しくも、残酷に――それはまるで傷ついた鳥のように――ひび割れたビー玉――。

伸ばした手の指先から蒼と白で彩られたマーブルの空が広がっていく――。
「触れさせて・・・貴方の心に・・・」
僕はゆっくりと――壊れないよう丁寧に籠の中からビー玉を取り出そうとした。
「マスター・・・今・・・そこから連れ出してあげるからね・・・」
僕が恐る恐るひび割れたビー玉を手のひらに乗せると、ビー玉は音もなく――粉々に砕け散ってしまった――。
そして――。

「これは・・・心の樹・・・?」
粉々に砕け、床に散らばった破片。
その中から薔薇の茨でところどころ傷ついている小さな樹が生えてきた。
「これが・・・マスターの・・・心・・・」
ずっと探していたビー玉。
ずっと探していた彼の心。
深い記憶の奥底に封じ込められるようにして隠されていたそれを――僕はついに見つけた――。
真っ暗な闇の中で放置されて、陽の光を浴びずに萎れ、ボロボロになってしまった彼の心の樹。
酷く病んでいるその樹を見て、僕は"覚悟"を決める。
「マスター、今まで何もしてあげられなくてごめんなさい・・・」
僕はそう言うと鋏を取り出した――。
「でも・・・」
"でも――きっと貴方の心だけは助け出してみせるから――"
僕は手にした鋏で樹に絡みついた茨を切り落とした。
何度も――何度も――。
その都度、僕の胸をまるでナイフで抉られているかのような激痛が走る。
けれども、僕の手は止まることはない。
何度も――何度も――茨を切り落とそうと鋏を振るった。
痛みと引き換えにしてでも――。
たとえ、自分が消えてしまおうとも――手にしたいもの――。
痛みと――。

"貴方が引き換えに貰うものはなぁに?その――痛みと――"

気付いて――。
助けて――。
彼を――。
僕が――。それとも――。
"蒼星石、蒼星石・・・!"
誰かが僕の名前を呼んでいる――。
ひどく懐かしい声、ずっと待っていた――声。
やっと――心が――。
意識が薄れていく中――、僕が最後に見たのは――泣きながら僕の名を叫んでいる彼の姿だった――。



~メロディ~
ふわふわとしたベッドの上、一人寝転んで空を見上げる。
まるで向こうでは月の兎が地球をぼんやりと眺めているかのような――。
プルルル、プルルル、と電話の呼び出し音だけが鳴り響く。
繋がらないままの電話。早く帰って来ないかな――なんて、我侭を胸の内で呟いてみる。
ふと、彼から貰ったオルゴールを開けて見る。
ゆっくりとキラキラとした綺麗な銀の音色が部屋中に広がった。

空気を伝わるように鳴り響くメロディ。
ここは何処だろう。
古いアルバムの1ページのような懐かしい感覚。
けれども、記憶に残らない何処か。
見渡すと、暗い電灯の中に作りかけの人形やら何やらが置いてある。
視界の先には一人で机に向かい、熱中するように人形を作る男性。
「あれは・・・」
近寄ろうとしたら、その人は僕に気付いたのかこっちを見て微笑んだ。
"こっちへおいで、見せてあげよう"
彼の言葉に甘えるように、僕は彼の隣へと歩いて行く。
「この人形は・・・?」
"彼女は僕の娘の一人だよ。そう、究極を目指して作られた僕の大切な・・・"
彼の隣には眠ったままの三人の人形。
黒いドレスを纏った美しい銀髪の――。
橙色の服に身を包み、ヴァイオリンを抱いた――。
紅と翠の鮮やかなオッドアイの――。
"今作っているのは、この子たちの妹なんだ"
「そう・・・なんですか」
それはきっと――。
「あの・・・貴方は・・・」
貴方は――お父様?
そう聞こうとした時、何処からかオルゴールの音色が響いてきた。
突然、意識が霞んでいった――。
遠のいていく意識の中、彼が僕に微笑みかけていた――。

耳の奥でずっと鳴り止まないメロディ。
きっと、オルゴールの音色を子守唄に転寝してしまったんだろう。
「あの夢は・・・」
あの男性はお父様だったんだろうか――。
そんなことを考えていると間もなく、彼が帰宅した。

もう深夜だと言うのに、夢が気になって眠れない。
ふと鞄から出て、空を見上げる。
天窓から見える星たちはまるで銀色のシャワーのようだった。
「お父様は・・・どうして・・・」
本当にあの優しそうな人が、僕達にこんな過酷な運命を――。
けれども、いくら考えても僕にはわからなかった。

「こんな時間まで起きてたのか?」
突然の声に少し驚く。
「マスター、起こしてしまって・・・ごめんなさい」
「いや、蒼星石のせいじゃないよ。ちょっと喉が渇いたから・・・」
彼は優しく僕の頭を撫でると、キッチンへと消えていった。
「蒼星石も飲む?」
そう言うと、彼はコップを二つ持って戻ってきた。
「ありがとうございます・・・」
それから、少しだけ彼と話をした。
星のこととか、昔見た本のこととか――。
そんなことをしている間に、夢の事なんてすっかり忘れてしまっていた。
もう少しだけ、今のままで――。
「おやすみなさい、マスター」
「おやすみ、蒼星石」。
僕は鞄へ戻ると、眠りに就く。
束の間だけれど、彼と一緒なら安心できる幸せな時間。
耳の奥でずっと鳴り止まないメロディ。
楽しい夢を見よう。彼がくれたオルゴールの銀の音色に誘われて――。
そう、三日月の寝台に架かる逆さまの虹を渡るような幸せな夢を――。