今日はマスターの退院の日。
   マスターが盲腸を患ってしまい入院している間、僕は柴崎のおじいさんとおばあさんの所にお世話になっていた。
   それも今日で最後だ。
蒼:「お世話になりました。また。」
   僕はおじいさんとおばあさんに一礼するとカバンに乗ってマスターの自宅へ出発した。


   ほどなくして自宅に着く。 
蒼:「ただいま。」
   家に入り、僕は小声でそう呟いた。
   マスターは帰ってくるのは正午過ぎぐらいになると言っていた。
   だから当然、返事が返ってくるはずがない。
   それでも、マスターが帰ってきているかもしれない、ちょっと期待して言ってしまった「ただいま」だった。
蒼:「・・・・。」
   がらんとした自宅。
蒼:「さ、マスターをお迎えする準備しなくちゃ。」
   マスターが帰ってくるまで大分時間がある。
   僕はいそいそと家の掃除を始めた。
   マスターが帰ってきたとき、家が綺麗になってたら気分いいだろうしね。



マ:「ふあ・・・。」
   俺は病室のベッドで目覚めた。
   今日でここともオサラバだ。
   上半身を起こし、外の景色を眺める。
   今日もいい天気だ・・・。んん~。
マ:「おや。」
   窓の外縁になにか置いてあるのを見つけた。なんだべ。
   これは・・・。
   ベッドから下り、窓を開けてそれを手に取った。
   一本のヤクルトだった。 
   ・・・ふむ、ヤクルト、ね・・・。あの子か・・。
   水銀燈は昨日、俺の病室にあったくんくんのDVDを全て観てしまった。
   くんくん視聴中、明日俺が退院することを伝えた時、彼女は俺の方を見ず
   ただ一言「ふぅん。そお・・。」と言ったきりだった・・のだが。
マ:「・・・・。」
   俺はヤクルトの蓋を剥がして一気に飲み干した。
マ:「ごっそさん。」
   そして空の容器をゴミ箱に放り込む。



   掃除機をかけながら僕はマスターのことを考える。
   マスターが入院中、僕は毎日マスターのところへお見舞いに行った。
   カバンを使って窓からマスターの病室に入って、ふふ、なんかまるで密会してるみたいだったな。
   着替えを持っていったり、体を拭いてあげたり、お弁当を持っていって一緒にご飯食べて、お話して・・・
   でもその間、悠長にしていられるわけじゃなかった。
   お医者さんや看護婦さんがいつ病室に入ってくるかわからなかったから。
   不意の訪問を、ベッドの下やお布団の中に潜ったりしてやり過ごして・・・
   僕はゆっくりマスターと過ごしたいのに・・・
   それにあのマスターの担当の看護婦さん、日増しにマスターの病室に訪れる回数が増えていったような・・・
   しかもあのマスターを見る目つき・・・。
   うう~~ん、僕の思い過ごしかな?
   でも、今日でマスターが帰ってくるし、もうそんなこと気にする必要はないんだよね。うん。

   一通りの部屋の掃除機がけが済むと、今度はバケツで水を汲み雑巾がけを始める。
   時間あるし今日は徹底的にやってしまおう。
   普段高くて届かない場所もカバンを駆使して汚れを拭き取る。
   ごしごしごし・・・

   マスター、帰ってきたら抱っこしてもらおう・・・。
   そして・・・キスも・・せがんじゃおうかな・・
   病院じゃ思うように甘えることもできなかったし、なんかこう、今の僕はちょっと欲求不満みたいな感じなんだ。


   僕は時計を見た。
   まだ十時過ぎかぁ・・・。
   まだマスターが帰ってくるまで時間あるな・・・。
   昼食を作るには早すぎるし、中途半端な時間だ。でも他にやることもないし・・・。
   テレビでも観よう。
   リビングのソファーに腰掛け、電源を点けるとチャンネルを幾つか回してみる。
   あまり面白い番組はやってないみたいだ。
   しょうがないので通信販売のテレビを観てみることにした。
   テレビの中で、エプロンを付けた男の人がスポンジに何か洗剤をつけている。
蒼:「・・・・・。」
   それにしてもこの男の人はよく喋るなぁ・・・。
   洗剤一つであんなに語れるなんて凄い。
蒼:「わぁ・・・。」
   男の人が汚れた食器を一回軽くスポンジで擦ると、跡形もなく汚れが取れてる。
   あんな汚れがすいすい取れちゃうなんて凄い洗剤だなぁ・・・。
   あの洗剤を作った人はきっとお父様のような凄腕の錬金術師なんだろうな。
   その後、洗剤の他にもとても便利そうな道具がたくさん紹介された。
   さて、丁度いい頃合かな。
   僕はテレビを消すと昼食の準備に取り掛かるためキッチンの方へ移動する。



   最後の検診を終え、俺はやっとこさ退院のOKが出た。
   服や身の回りの物はすでにボストンバッグに収納してある。
   あとはもう帰るだけだ。
マ:「お世話様でした。」
   病院の方々に礼を言い、俺は病院を後にした。
   さぁて、蒼星石が待っている自宅へ帰りますか!
   もうね、帰ったら真っ先にチュッチュしてやろう。
   病院ではさんざん焦らされたからなぁ。
   蒼星石のことを思うと自然に足取りが早くなる。
   ・・・む。
   不意に、辺りが翳った。
   空を仰ぐ。太陽が雲に隠されたようだ。いつの間にか空を覆いつくさんとするほどの量の雲が現れている。
   今朝見たときは雲一つ無い快晴だったんだが・・・。
マ:「・・・やな天気になってきた。」
   雨が降ってきてはかなわん。俺は歩を一層早めた。



   僕はマスターが入院中、それとなくマスターの食べたいものを聞き出していた。
   そして今僕がキッチンで作ろうとしているのは『つみれのお味噌汁』。
   「最近食べてないもので何か食べたいものある?」って聞いたら「久々につみれの味噌汁食べたいなぁ・・・。」って。
   『つみれ』って、その時初めて聞く料理の名前だったからよくわからなかったけど、
   昨日さっそくおばあさんに作り方を教わったんだ。
   野菜を切って、イワシを三枚におろして・・・初めの下ごしらえを済ませる。
蒼:「えーと。」
   イワシの身をすり潰すのに使う擂り鉢が確か、流し台の上の収納棚にあったはず・・・。
   さすがにそこには踏み台を使っても手が届かないので、僕はカバンで浮いて擂り鉢を取り出した。
   かなり大き目の擂り鉢だ。割ったりしたら大変なので僕は慎重にテーブルに置く。
   擂り鉢をしげしげと見やる。なかなか使い込まれてる感じがする。
   僕がこの家に来る以前には、マスターはよくこの擂り鉢使ってたのかな?
   さて、擂り粉木(スリコギ:擂り鉢で擂るのに使う棒)はと・・・・
蒼:「あれ?」
   キッチンの引き出しを開けたけど見当たらなかった。おかしいな・・・。
   前にここにあったの見たはずなんだけど・・・・。
蒼:「ここかな?」
   別の引き出しを開けてみた。
蒼:「う~ん?」
   見当たらなかった。
   食器棚の方かな?
   ゴソゴソと探ってると・・・
蒼:「あ・・・!」
   いけない! 棚の縁に置いてたマスターのマグカップを床に落としてしまった。
   僕は慌てて床に落ちたマグカップを拾い上げる。
   マスターのマグカップ。
蒼:「良かった。割れてない・・・。」
   そう、安心した瞬間だった。
   ・・ピキ・・パキン・・・
蒼:「あぁ・・・。」
   僕の手の中で、マスターのマグカップは二つに割れてしまった。
蒼:「・・・・。」
   なんだろう。その瞬間、何か冷たいものが、僕の背中を走りぬけたような気がした。



   自宅に帰る道すがら道路に落書きしてる子供が一人、俺の視界に入った。
   俺から離れた位置からの後姿なので顔は見えないが、服装からして男の子だろう。
   俺はなぜかその子供の屈んでる後姿から蒼星石を想起してしまった。
   男の子を見て蒼星石の姿をダブらせるなんて、蒼星石に知られたら怒られちゃうかな?
   しかし、あの男の子、道路の真ん中にああ居座って遊ぶのはいかんなぁ。通行の邪魔だろう。
マ:「おーい、坊主。そんなとこで遊んでちゃ、車来たら危ないぞ~。」
   ・・・おやおや、反応がないな。
   男の子は俺の注意に耳を貸さず、黙々と落書きに勤しんでやがる。
マ:「まったく・・・。」
   ブォオオオオ・・・
   車のエンジン音が聞こえてきた。俺はエンジン音の方向へ首を巡らせる。
   ほうら、車が来た。言わんこっちゃない。



蒼:「あ~あ、怒られちゃうかなぁ。」
   僕は割れたマスターのマグカップを見つめながら溜息をついた。
   いや、怒らないだろうな、マスターは。
   僕がミスをしてもマスターはいつも怒らないんだ。
   僕だけじゃない。翠星石達がマスターにイタズラをしても、いつもマスターは笑って許してくれる。
   怒るそぶりを見せるけど、結局いつも笑って済ませちゃうんだ。
   だから翠星石達はいつも調子に乗ってマスターを・・・もう。
   でも、そんなマスターでも、怒る時がある。



   俺は目の前の光景がこうなるだろうと予測した。
   車は徐行する。男の子は車に気付いて避ける。と。
   しかし・・・
   なぜ車はスピードを落とさない?
   なぜ男の子は落書きを止めようとしない?
   なぜ双方とも避けるそぶりを見せない?
マ:「オイオイオイオイ・・・。」
   俺は駆け出した。



   僕が自分自身を卑下した時、マスターは本気で怒った。
   「そんなことを言うな。」って。そして・・・悲しい眼をするんだ。
   その眼を見たとき、僕はとても悪いことをしてしまったかのような気持ちになる・・。
   マスターはどうしてあんな眼をするんだろう。僕にはわからなかった。  
   僕は割れたマスターのマグカップを見つめ続けた。  



   男の子を歩道へ突き飛ばし、横を見ると、もう俺のすぐ目の前に車が迫って・・
マ:「うそだろ・・」
   蒼せ・・・



   グチャ グチャ グチャ・・・
蒼:「ふう・・・。」
   擂り鉢と擂り粉木でイワシの切り身を擂り潰す。
   ドールにはかなり大変な作業だ。
   擂り鉢を押さえててくれる人がいれば楽なんだろうけど・・・。
   マスターがいてくれたら・・・。
蒼:「んしょ・・と・・・。」
   グチャ グチャ グチャ・・・


   昼食が出来上がった。
   あとはもうマスターの帰りを待つだけだ。
蒼:「もうそろそろかなぁ・・・。」
   僕はソファーに腰掛けて足をパタパタさせる。
   パタパタパタパタ・・・
   なんか、いてもたってもいられない気分だ。
   早く帰ってこないかな・・・。   
   ピーポーピーポー・・・
   どこからか、救急車のサイレンの音がかすかに聞こえた。



   ピンポーン
蒼:「!」
   マスター!
   僕は玄関に飛び出した。
マツ:「ごめんください。柴崎です。」
   あ、おばあさん・・。
   僕は踏み台を使って玄関の扉を開けた。
マツ:「こんにちは。マスターさんもう帰られたかしら?」
蒼:「こんにちは。いえ、まだです・・・。」
マツ:「そう。じゃあこれを。」
   おばあさんが僕に手紙を手渡した。
マツ:「マスターさんから蒼星石ちゃんへの手紙よ。」
蒼:「え?」
マツ:「本当は昨日届いてたんだけど、おじいさんが蒼星石ちゃんに渡しとくのを忘れてたのよ。
    もう、どうしてこんな大事な事忘れるのかしらねぇ。本当にごめんなさいね。」
蒼:「あ・・・はい・・。」
マツ:「おじいさんにはたっぷりお灸を据えとくからね。許してね?」
   おばあさんがにこやかな表情で指をペキポキと鳴らしてる。
蒼:「は、はい。」
マツ:「ふふふ・・・。」
蒼:「は、ははは・・・。」
   僕は自分の口元が引きつるのを感じた。  
蒼:「あの、この手紙って・・。」
マツ:「きっとマスターさんが病室で書いたのね。では私はもう行くわ。またね。」
蒼:「あ、せっかくいらっしゃったんだし上がってもらっても。」
マツ:「これからマスターさんが帰ってくるのに、水入らずを邪魔しちゃ悪いわ。ふふ。じゃあね。」
蒼:「あ・・・、わざわざありがとうございました。」
   僕はおばあさんを見送った。


   リビングに戻り、手紙を眺める。
   マスターからの手紙・・・。
   昨日届いたってことはおととい書かれたのかな?
   僕はソファーに座り込み手紙を読んだ。


   拝啓 蒼星石様。

   あなたが毎日お見舞いにきてお世話してくださるので経過はすこぶる順調です。
   こんな快適で楽しい入院生活が送れるなんて、思ってもみませんでした。
   あなたには感謝してもしきれません。

   でも、入院のせいでせっかくの盆休みが潰れてしまいました。
   いろいろ計画してたのにね。
   本当、間が悪いマスターだよね。この駄目マスターが!
   だから、退院したらちょっと長めの休暇を取ろうと思います。
   その休暇を利用して、入院中あなたにお世話になった恩返しをしたいと思います。
   休暇中どう過ごしたいか考えといて下さい。精一杯応えますから。

   いつもありがとう。


                              あなたのマスターより


蒼:「マスター・・・。」
   僕は手紙を胸に押し当てて目を瞑りマスターのことを思った。
   そして、僕の過ごしたいことを・・・。


   僕は手紙をカバンに仕舞った。
蒼:「マスター、遅いな・・・。」
   もう正午はとっくに回ってる。
   僕はまたソファーに座り足をパタつかせる。
   パタパタパタ・・・


   一時を過ぎてしまった・・・
蒼:「電話くらいくれてもいいのに・・・。」
   そういえば今マスターは携帯電話持ってないんだっけ。病院で使えないから。
蒼:「・・・・。」
   僕はなんとなしに寝室に向かった。
   マスターのベッド・・・。
   僕は潜り込む。
   目を瞑り枕にほっぺたをくっ付ける。
   マスターの匂いがする・・・・。
   カバンの中よりマスターのベッドの方が落ち着くなんて・・・
   お父様が知ったらどう思うかな・・・
   でも一番落ち着くのは・・・・
   ・・・・・・。



蒼:「あっ!」
   いけない。眠ってしまった。
   僕は慌てて飛び起きて時計を見る。
蒼:「あ・・・?」
   時計は二時を回っていた・・・
   僕は急いでリビングに走る。誰もいない。
   キッチンにも、マスターの部屋にも、トイレにも、家の何処にも、マスターはいなかった。
   僕はソファーに腰掛け、考えを巡らす。
   マスターは、一旦帰ってきて、またどこかに出かけてしまったんだろうか・・・
   それとも・・・まだ帰ってきてない・・・?
   急に胸が苦しくなってきた・・・
   なにか、言いようのない不安が僕の心を締め付けはじめる。
   あの時の救急車のサイレン・・・もしかして・・・。
   嫌な想像が勝手に湧き上がってくる。
   このままマスターが帰ってこなかったら・・・。
   このまま一人ぼっちになったりしたら・・・。
   ・・僕は・・・・。
蒼:「マスター・・・。」
   その時、体が不意に持ち上がった。
蒼:「!?」
   そのまま持ち上げられて後ろから抱きすくめられた。
マ:「ただいま。」
   マスターが僕を上から覗き込んでそう言った。
蒼:「マスター。・・・、遅いよ・・・。心配したよ・・・。」
マ:「すまん、いろいろあってな。」
蒼:「また、いろいろあったの・・・?」
マ:「ああ、いろいろな。」
蒼:「そう・・・。」
マ:「・・・・。」
   そんな顔、しないでよ・・・。
蒼:「いいよ、許してあげる・・・。」
マ:「ありがとう。」
蒼:「それと・・おかえりなさい、マスター。」


   チュ・・・。



                                       終わり






























蒼:「ねぇ、マスター。」
マ:「うん?」
蒼:「いろいろって、何があったかまだ聞いてないんだけど?」
マ:「あー、うーんとな。車に轢かれそうになって、間一髪避けた後、車が電柱に激突してね。
   事故車から酔っ払いを引きずり出して、人工呼吸、心臓マッサージ、止血を施して、
   救急車呼んで、服に血が付いてて怪我人と間違われて、無理やり救急車乗せられて、
   病院にとんぼ返りして、また色々と検査を受けて・・・まぁ、いろいろあったわけだ。」
蒼:「・・・・。」
マ:「最近俺ってトラブル続きだよなぁ・・・。はぁ・・・。」