Side M:マスター

 最近にしては珍しく目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
 時計を見るとまだ5時前、右腕の上の蒼星石もまだ眠りについている。
 昨日は二人して遅くまで起きていたし、寝かせておいて方がいいだろう。
 その寝顔は安心しきった、まさに天使のような寝顔だった。
マ「そうだな、たまには替わりに朝食の準備ぐらいするかな。」
 蒼星石の寝顔をしばし堪能してから、目を覚ましてしまわないように気をつけてそっと腕を抜いた。
 それから目覚ましのセットを解除して洗面所に向かった。

マ「さて!」
 顔を洗って気合を入れ、眠気を追い払ったところで台所にやってくる。
 炊飯器や冷蔵庫の中を確認する。ご飯は蒼星石が前夜のうちにセットしてあるので問題ない。
 あとはおかずだ。せっかくだから何か一品くらいはきちんと作る事にした。
 冷蔵庫には納豆や豆腐、もずくといった健康に配慮してくれての食品のほか、
 生姜汁に漬け込まれて下ごしらえされた今日のお弁当用と思しき豚肉、
 後は鶏の挽き肉や卵、そしてその他もろもろの野菜といったものが入っている。
マ「煮物でも作ろうかな。」
 蒼星石のおかげで野菜の美味しさに目覚め、今では煮物は大好物の一つだ。
 一人暮らしをしていた頃はとりあえず野菜や肉を適当に切って鍋に入れて煮て終わりだったが、
 誰かのために、それも大切な人のために作っていると思うと自然とこだわりたくなってしまう。
 素材を切る際の大きさや形、面取りや灰汁取りといった普段なら面倒としか思えない事も全然苦にならない。
 こうしたこだわりは地味だが確実に味を左右する要素だ。しかも、しなくても特に困りはしない。
 だからこそ、相手に食べて喜んで欲しいという気持ちが無ければできない事だともいえる。
マ「愛は最高の調味料、とはよく言ったもんだねえ。」
 酒や砂糖で味を調えながら煮ている間に、煮物に入れる肉団子を作る。
 鶏挽き肉をボウルに出し、水気を切った豆腐、細かく刻んだねぎ、生姜、椎茸、そしてつなぎに卵を加え、
 塩こしょうを振ってぐにぐにとこねる。
蒼「あわわ、寝過ごした!」
 慌てて台所へ向かってくる声、どうやら蒼星石も目を覚ましたようだ。
マ「おはよう、蒼星石。」
蒼「あ…あれ?…おはようマスター。」
 予想外の光景に唖然とする蒼星石。
 僕はそのまま料理を続けた。


Side S:蒼星石

 普段ならありえない事に目覚ましでも目が覚めなかったようだ。
 時計を見るともう6時前、昨夜腕枕をしてくれていたマスターももう居ない。
蒼「マスターも寝坊したのかな?起こしてくれたっていいのに…。」
 昨日夜遅くまであんな事してるから…。
 とにかく、急いで朝御飯とお弁当の支度をしなきゃ!慌てて台所へ向かう。

マ「おはよう、蒼星石。」
蒼「あれ?」
 そこには予想に反して身支度を終えたマスターが居た。それもエプロンをつけて料理をしている。
蒼「おはよう、マスター。」
 とりあえず挨拶を返した。マスターはそのまま料理を続けている。
 …何だかとても楽しそうだ。
蒼「マスター、後はボクがやるから、マスターは出かける準備を。」
マ「もう済んでるから大丈夫だよ、ありがとう。」
蒼「でも、朝食作りはボクの仕事だから。」
マ「たまにはいいじゃん。まあ、せっかくだから冷蔵庫から納豆ともずくを出しておいてもらおうかな。
  それと食器を並べておいてくれると嬉しい。それが終わったらテレビでも見て待っててよ。」
蒼「うん…分かった。」

 言われた事はすぐに終わってしまった。邪魔にならないよう、言われた通りにテレビをつけているが何も頭に入らない。
 一方マスターは煮物の仕上げにかかっているようだ。
マ「これでよし、と。あとは少し煮込めば完成っと。20分位でちょうどいいかな?」
 終わったのかな?待っている間はマスターとお話できるよね。
 だがその期待は裏切られた。マスターはまだシンクの収納棚をいじっている。
 何かを焼く音や何かをかき混ぜる音が続いている。
蒼「マスター、何してるの?」
 寂しさが募り、つい聞いてしまった。邪魔だと思われたらどうしよう…。
マ「うん、煮物が出来るまでの間にお弁当を作ろうと思って。」
蒼「え、お弁当?」
マ「そう、たまには僕もお弁当を作ってみようかと思って。」
 そう言ってマスターは照れたような笑いを浮かべた。
蒼「えーと、何を入れるの?」
マ「おかずはさっき煮物に入れた肉団子のタネで作ったつくね風のハンバーグと、あと卵焼き、それと今作ってる煮物かな。
  ご飯は海苔弁にしようかと思ってるんだけど。」
蒼「じゃあさ、ボクが下ごしらえした生姜焼きがあるからそれを使ってよ。」
マ「うーん、今回は一応自分で作ったものだけにしたいんだ。ごめんね。」
 いつも通りの優しい口調だった。
 …いつも通りの笑顔だった。
 ……やわらかな、そして残酷な拒絶だった。
蒼「そっか、邪魔してごめんね…。」
マ「別に気にしないでよ。」
 そう言ってマスターは再び料理に集中しだした。その様子はとてもうきうきとしているのが分かる。
 今まで…こんな風に楽しそうなマスターを見た事があったかな?
 いつもは大好きな笑顔。それなのに今はその笑顔がボクの心をしくしくと痛めつける。
 ボクのしてきた事は…何だったのかな?
 いつもボクの料理を食べてマスターは喜んでくれていた。
 自分はこの人の役に立てているんだとその笑顔を見るたびに思っていた。
 でも、本当にそうだったんだろうか?
 ボクなんかが居なければ、マスターはこうしてもっと笑顔で過ごせたんじゃないだろうか?
 ………自分は、この人にとって邪魔な存在だったんじゃないだろうか?
マ「ご飯の準備できたよー。」
 マスターが呼ぶ声がした。
 頭に浮かんだ暗い考えを振り払って、ボクは食卓へと向かった。


Side L:ラバーズ

マ「それじゃあ、いただきまーす。」
蒼「いただきます…。」
 朝食の挨拶が済む。だが奇妙な事に二人とも料理に手をつける気配が無い。
 マスターは蒼星石の感想が気になり固唾を呑んで見守っているが、彼女が手をつける気配は無い。
マ「え…と、蒼星石食べないの?どこか具合が悪いとか?」
 たまりかねてマスターが蒼星石を促す。
蒼「ううん、そんな事ないよ。いただくね…。」
 そう言って煮物を口に運ぶ。
蒼(味が…しない…。)
 今の蒼星石に料理を味わう余裕は無かった。
 その様子を見ていたマスターが口を開く。
マ「ひょっとして…勝手な事をしたのを怒ってるの?」
蒼「ううん、そんなことない…。おいしいよ…。」
 だが、それが本心からでない事は誰が見ても一目瞭然だ。
マ「ごめんね、気を使わせちゃって、口に合わなかったんだね。
  作っちゃった分はきちんと責任を持って片付けるから、蒼星石は自分で作るといいよ。
  お弁当もちゃんと自分で持っていくから昼食も気にしないで自分で用意してくれればいい。」
蒼「お弁当を…持っていく?」
マ「うん、蒼星石にお昼御飯に食べてもらいたかったんだけど…迷惑なだけみたいだし…。
  言われたとおりに生姜焼きだけでも作ればよかったかな…。ハハハ…。」
 そう言ってどことなく寂しそうに笑う。
蒼「マスターが…ボクに…?」
マ「ああ、いつも蒼星石が自分を幸せにしてくれるように、自分もその半分でもいいから蒼星石にお返ししたかった。
  でも…駄目だったみたいだね。本当にごめん、一人ではしゃいで出しゃばった真似をしちゃって。」
 その笑顔はとても悲痛なものだった。
 こんな風に悲しそうなマスターを蒼星石は見た事が無かった。
蒼(いつもの…ボク…。)
 そこでハッとして蒼星石が顔を落とす。
マ「蒼星石?」
蒼「ごめん、ごめん、マスター…っ!」
 膝の上で握り締めた蒼星石のこぶしに涙が落ちた。
マ「どうしたの?蒼星石は気にしないでいいんだよ?」
蒼「違う、違うっ!ボクがわがままで…卑怯だったからそんな風にマスターを悲しませてしまったんだ!」
マ「卑怯?なんで?」
蒼「ボクは、さっきマスターが料理をしていて、いつになく楽しそうなのを見て素直に喜べなかった!
  それどころか、自分なんて必要にされていないんじゃないかって、むしろ妬んでしまった…。
  普段は自分がそうして、マスターのおかげで喜ばせてもらってるのに…。
マ「蒼星石…。」
  あまりの様子にマスターが蒼星石の傍に寄る。
蒼「しかもそのせいで、せっかくマスターが料理を作ってくれたのに、それをないがしろにしてしまって…。
  それは自分が、自分自身がいつも一番恐れている事なのに…。
  マスターは、いつだって必ず受け止めてくれていたのに…。
  ボクは、ボクは、自分勝手で、最低で、マスターに愛される資格なんて……」
 蒼星石の脇にしゃがんだマスターが蒼星石の頬に両手を当てた。

       パンッ!

蒼「ひゃあっ!」
 両頬を軽く張られた蒼星石が悲鳴を上げる。
マ「落ち着いて、蒼星石。さっきの僕の気持ちがいつもの君と同じ気持ちだと気付いたんだよね?
  …だったらさ、なんであんなに嬉しそうだったのか、ってのも分かるよね?」
 そこにはいつもの笑顔に戻ったマスターがいた。あたたかい、包み込むような笑顔のマスターが。
蒼「そ…それは、大切な人の笑顔のために…、愛している人に喜んでもらうために、何かできるのが嬉しいから…、だと思う。」
マ「僕もそうだと思う。君あっての喜びだ。だとしたらさ、いまさら愛される資格がどうのこうの言う必要は無いよね?」
蒼「う…、うん。」
 そのまま二人はまっすぐに見つめあう。
マ「蒼星石…。もう大丈夫?」
蒼「うん、大丈夫だよ、マスター。」
マ「じゃあ、冷めないうちに朝御飯食べちゃおうか。」
 笑顔でそう言ってマスターは席に戻る。
蒼「この煮物おいしいよっ、マスター。」
 蒼星石が笑顔で言った。
マ「そう?それは良かった。」
 食事をしているマスターの顔もほころぶ。今日一番の満面の笑みだ。
蒼「この肉団子ちょっと変わってるね。」
マ「うちの家庭の味だからね。」
蒼「今度作り方教えてね。」
マ「うん。」
 そんな風に話している間も二人の顔には笑顔が絶えない。
蒼「なんだろう…いつもの朝よりも御飯が美味しいし、何だか幸せな気がするよ。」
マ「それは多分ね、美味しいものも、幸せも、笑顔があってこそ、笑顔であればあるほど味わえるものだからだと思うよ。」
蒼「そっかぁ、そうかもね。ごちそうさま!」
 そのまま蒼星石が席を立つ。
マ「お粗末様でした。もういいの?」
蒼「うん、だってそうしないとマスターのお弁当を作る時間がなくなっちゃうからね。
  それでね、ボクのお弁当でマスターに最高の笑顔で笑ってもらうんだ!」
 そう言って蒼星石が振り向く。そこには間違いなく、今日最高の笑顔があった。