さくらんぼが小さな口の中に入る。
控えめに動く顎にあわせて口内に広がる果汁に、蒼星石は顔をほころばせた。
「んっ美味しいね。」
彼女の笑顔に買ったかいがあった、とマスター。
自分の頬が緩むのを感じながら、彼もさくらんぼを1つ口に入れる。
口から飛び出すヘタを引きちぎろうとしたところで、それを制止するように蒼星石がマスターに話しをふった。
「知ってる…?さくらんぼのヘタ、口の中で結べる人って…キス上手なんだってさ…」
「聞いた事あるな」
「やってみる?」
じっと見つめる蒼星石に、マスターは答えの代わりにヘタを口に押し込む。
それを見て蒼星石は、種を吐き出すと、新しいさくらんぼを口に含んだ。
舌で曲げる、口蓋に押し当る、歯で噛み締めて固定する。
さくらんぼのヘタが結べたら、絶妙な舌テクニックを持つことになるな、
キスが上手なわけだ、とマスターは考える。
黙々とあごを動かす2人。
先に動いたのは蒼星石だった。
掌で口を覆い、そっとへたを吐き出す。
掌の上、唾液でぬらぬらと輝くそれは相も変わらず孤を描いていた。
「…ぁ…僕は……駄目全然出来ないや…
 マスターは?
 結べた?それとも結べない?」

「いや、結べない」
マスターの口の中からヘタが引っ張り出される。
指先で揺れるそれは噛みすぎたのかギザギザだ。
「……なんだ、マスターもか…
 ちょっと安心したかかも………
 僕だけ下手だったら…その…マスターに悪いし……」
安堵のため息をつく蒼星石。
マスターを不快にしてないか、
自分はどうしようもない存在ではないのか、
たとえ、ヘタが現れるまでのごく僅かな時間であっても、
蒼星石は不安でしかたがなかったのだ。
一方、当事者であるマスターはというと、
蒼星石の心配をよそに、少考の後、
「練習する?」と、提案。
「それって……するって事?」
突然のことに思わず聞き返すと、
マスターは首を縦に振った。
マスターがしたいのなら……。
「……いいよ…下手なままなのは…いけないと思うし…」
顔が熱い、と自分の顔が熱を持つのを蒼星石は感じ取った。
何で恥ずかしがってるんだろう? これくらい毎日してるのに。
しかし、口から出てくる声はどんどん小さくなり、
「じゃあマスターから…おねがい…」
最後はかすれるような声で言葉になっていた。
「先? …いいけど」
そっと目を閉じる蒼星石。
マスターのやけに呑気な声に訝しく思いながらも、
蒼星石はマスターを信じ、そのときを待った。
闇の向こうで動く気配を感じ、蒼星石は身をすくませる。
しかし、さくらんぼの入った陶器製の器をつま先ではじく音を最後に、その気配は途絶えた。
後に続く静寂に、不安が膨らんでいく。

「駄目だ、できない」
やがて聞こえてきた言葉に蒼星石の不安は破裂し、
慌てて瞼を開けた。
僕が何かしたの? 何がマスターの気に障ったの?
マスターの失望の混じった声が悲しくて……。
でも、蒼星石の目に映ったのは、
マスターの指先でゆれるさくらんぼのヘタ。
どうやらマスターはさくらんぼのヘタを結ぶ練習をしていたようで、
蒼星石はただ勘違いをしていただけだったみたいだ。
「どうした? 蒼星石」
「えっ……ううん、なんでもない!」
蒼星石の差し迫ったような表情に驚いた様子のマスターの言葉に、
その顔を見ていられず、ぶっきらぼうな答えとともに蒼星石は顔を背けた。
恥ずかしさと、安心、そして残念さ。
それらが混じった思いが蒼星石のなかに渦を巻く。
あれ、なんで残念なんて思うのだろう。
意外な自分の感情の答えは程なくして現れた。
どんどんと熱を持っていく自分の顔。
その淫らな考えを打ち払うように顔をぷるぷると振ると、
蒼星石は乱暴にさくらんぼを掴みそのまま口へ放り込もうとした、
が─

突然、乱暴に引っ張られる腕。
さくらんぼはあっという間に引っぺがされて、
その代わりにマスターの顔が目の前に現れたかと思うと、
唇に、柔らかな感触。
目の前にはマスターの顔があって、
さくらんぼを持っていた右手はあさっての方向に引っ張られていて、
さくらんぼを入れるはずだった口には暖かいマスターの唇があって、
……甘い。
頭の中が真っ白になって、
マスターの唇の甘さしか感じられなかった。
いつまで続くか分からない長い口付けの最中、
手からさくらんぼが落ちたことを蒼星石は感じ取れたが、
彼女には以上のことは何も出来なかった。
やがてマスターはゆっくりと唇を離す。
涎が糸を引き、灯りを艶やかに明かりを反射する。
「こっちの練習をする?」
マスターの意地悪そうな瞳に、
蒼星石は先ほどまでの恥ずかしさも、
さっき落としたさくらんぼのことも、どうでもよくなって、
小さく頷いた。