その日、外の世界は滝に勝るほどの轟音をまといながら、水の粒が天より降り注ぐ。一般的に“雨”と呼ばれる
気候現象のことを指される。雨は時には、人々を干ばつといった水不足から救い、時には川の氾濫、地すべりと、
間接的に命を奪ったりと二面を持つ。俺の隣にいる“彼女”も6月の雨にはさんざん苦しめられている。“彼女”は
首をもたげ、窓越しに雲に支配されている天を仰いだ。その時、彼女は天に何を望むのか。彼には“彼女”の心理
などわかるはずもなかったし、わかるつもりもなかった。

 体が揺れる。地震やそれに準ずる何かで揺れる、ではなくあきらかに自分以外の何者かが“揺らしている”のだ。
彼は水の底へ沈没していた意識を揺らされることにより、少しずつ浮上させていった。意識が水面下まで来ると、
彼はようやく瞼を開く。まだそこにはハッキリとした意識はなく、目が開いても全ての意識が体の中に入るのを待た
なければならなかった。
 意識が完璧に戻ると、先刻まで彼の体を揺らしていた“彼女”は頬を膨らませ、明らかにご機嫌斜め、といった表
情を彼に誇張した。
「マスター、もう9時だよ!休みなんだから早起きしてね。今度から早く起きなかったら僕、先に朝ごはんいただい
 ちゃうからね」
彼の腹の上に腰を据えていた“彼女”が彼に注意を促す。一向に彼の上から移動しようとしない“彼女”をしっかりと
認識した彼は、まだ混濁しつつある思考で言葉を考えた彼は、重々しい口を開いた。
「一週間に二度しかない休みだし、一日ぐらいは・・・。それより蒼星石がそこにいると、俺が起きれないんだけど」
蒼星石と呼ばれた“彼女”は自分の失態にようやく気がついたのか、機敏に彼の腹の上から腰を浮かせた。完全に体を
移動させた蒼星石は彼の言葉に反論を重ねた。
「約束忘れたの?今日近所のスーパーで税込み105円の抹茶宇治金時のかき氷を一緒に買いに行ってくれるってこと。」
蒼星石はごく些細な約束をこの日のために憶えていた。一方彼女マスターである彼はそんな些細な約束をどこで契ったのか
それと同時に、どう言い訳をしようかと乏しい脳を駆使して考えようとする。そんな彼の醜い心を見通したかのか、蒼
星石は欲求が満たされない幼児のように拗ねてしまった。
「別にいいんだ・・・マスターの約束に対する意識がよくわかったよ」
「ちょ、違う、違うぞ。寝起きで記憶があやふやだったんだって!多分」
彼は首を横に大きく振りながら必死に弁解をする。彼は“いつ約束したか”という質問をされることを最も恐れていた。
しかし蒼星石は大して深く追求はせず、表情を180度一変させ、
「本当?ならいいんだ。朝ごはん食べたら行こうね。」
と笑顔で、そしてスキップをしながら居間へ戻っていった。彼は二度寝に入ろうとする体に鞭打ち、急いで着替えてから
彼もまた居間へ向かった。

 朝食は古き良き日本を象徴したような純和風だった。白米、味噌汁、鮭の塩焼き、漬物、梅干、その他もろもろを朝食
として堪能した。彼のご満悦といった表情を確認すると、蒼星石も笑顔でそれに応えた。
 朝食の片付けも終わるころ、時計の短針は10、長針は15を指していた。外では未だ雨があまたの足音を鼓膜に刻む。
蒼星石が雨に身をぬらすことが無いよう、彼は蒼星石を右手で抱っこの形に抱きかかえ、大きめの傘に身代わりとして濡れ
てもらうことにした。
 玄関の戸を開くと、室内よりも大きな雨の地を打つ音がした。オマケに、遠くではあるが、雷の咆哮まで聞こえた。蒼星
石はそれに戸惑い気味だったが、彼がより強く抱きしめることにより、解消された。
「蒼星石、まだ濡れてないか?」
「うん、大丈夫。でも濡れたときは・・・よろしくね。」
「まかせろ。優しくしてやるからな。」
と、意味深げに蒼星石を安心させた彼は、あらかじめ用意しておいたタオルを一枚、蒼星石に手渡してやった。雨の強さは
以前変わりない。むしろ強くなっている気さえする。地へ落ちた雨粒ははじけ、下から道を歩く全ての人を濡らす。彼は何故
傘はずっと昔から変わりないのかと疑問さえ抱いた。
 家を出発して早くも5分。このまま行けばもう5分でスーパーにたどり着ける。雨は弱くなる気配を感じさせないが大丈夫
だろう、と彼が考えていた矢先の出来事だった。雲の植民地と化した天より、一筋の光が道行く人々の視界を遮る。
「うおっまぶしっ」
彼の無意識に放った声とほぼ同時にゴロゴロ、という轟音。蒼星石はとっさにタオルで首から上を隠した。どうやら雷が山の
辺りに落ちたらしい。彼は蒼星石を赤子のようにあやすと、再びスーパーへの歩を刻み始めた。
 結局、落雷というハプニングに不幸して出会いつつも、目的地のスーパーへと無事、到着した。彼はやや急ぎ足で自動ドア
をくぐると、蒼星石を地面に降ろした。
「なんとか着いたな・・。ところで蒼星石。」
「何?」
「税込み105円の抹茶アイスと、カフェで出される300円ちょっとの抹茶アイス。どっちがいい?」
彼はできるだけシンプルな形で蒼星石に訊いた。蒼星石は頭をたれて考え込む。おそらく欲求と金銭関係がその小さな頭の中
でぐるぐると回っていることだろう。しばらくすると、蒼星石は申し訳なさそうな表情で、俺に答えた。
「じゃあ・・・300円の方・・・で、いいかな、マスター?」
「別にいいぞ。どうせ200円しか違わないんだからな!」
そう無駄に明るく応えた彼は、蒼星石を再び抱き、店内に店を構えている喫茶店へと向かった。
 彼は、蒼星石を抱きかかえていすに座らせる。本人は一人で座れると戸惑ったが、やきもちを焼いてしまうのが彼の良いと
ころであり、悪いところでもあった。抹茶宇治金時アイスを2つ頼み、彼は雨足が弱まりつつある現状を透かす窓を見た。
天にはところどころ破れた布のように、雲が切れている。そこからは申し訳程度の光が漏れている。その光はあまりに頼りな
く、雨雲に飲まれてしまいそうな雰囲気を彼に感じさせた。そんな彼を不思議な面持ちで見守る蒼星石だったが、アイスが来
ると、彼に声をかけた。
「マスター、アイスが来たよ。餡子も乗ってるよ。すごいんだね。」
「そりゃ抹茶宇治金時だからな。これで餡子が乗ってなかったら・・・考えるだけでも恐ろしい!」
彼はオーバーリアクションをとり、蒼星石に笑顔を芽生えさせる。その笑顔は彼の心の拠り所ともなるのであった。
 彼がアイスを口に運ぶさなか、蒼星石はスプーンを起き、真剣な面持ちで彼に話し掛けた。
「マスター」
「ん、何?食べないなら俺が食べるぞ?」
「実は・・その・・・」
最初は彼と視線を交わしながら話していた蒼星石だが、しだいに視線をテーブルへと落としていった。雨はしだいに弱くなっ
ていくのが音から認識できた。
「実は・・・。ごめんなさい!買い物の約束は嘘なんだ・・・」
「なーんだ、そんなことォォん!?」
彼は驚愕した。朝、約束を忘れたとばかり思い、自分をのろっていた彼。しかしそれは蒼星石の巧妙な心理技だったのだ。
つまりあんな約束など、最初から存在すらしなかった。
「ごめんなさい・・・うっ・・うぅっ・・」
謝る蒼星石の瞳から、強いにわか雨が振り出した。それに反比例して、外の天気は回復に向かう。彼の怒りの雷が落ちると思
っているのか、蒼星石は視線をテーブルに90度となるように顔を伏せていた。彼の右手が伸び、帽子をかぶっていない蒼星
石の頭に重ねる。蒼星石は体をびく、と強張らせた。
「・・・答えは得た。大丈夫だよ、蒼星石。俺もがんばるから」
そういい、彼は蒼星石の頭を軽くなでてやった。彼自身も内心に安堵していた。まだにわか雨が降り続ける蒼星石を見かねて、
彼は蒼星石の首に下げられているタオルの存在を忘れ、ハンカチを渡す。蒼星石もタオルの存在に気づくことなく、濡れた顔
と涙を拭いた。
「さて、お勘定と行きますか」

 彼は激怒した。必ず、かのぼったくり店の店長を除かなければ、と1000円の出費を表したレシートを握り、決心した。
一方、蒼星石はだんだんと壊れつつある我が主を心配そうに見つめていた。スーパーの自動ドアをくぐり、外に出るとそこには
先ほどの未練たらしい雨など感じさせないぐらい晴れきった空があった。この真っ青な空は日の下にいる全ての人々の心を
くすぐるのだろう。この出来事に本能を刺激された蒼星石は小さい足をぱたぱた言わせ、うれしいことがあった幼児の様にはし
ゃぎだす。
「マスター!洗濯物を干さなきゃ!早くこないと置いて行くよー!」
そういうと、再び足を動かし、俺に鬼ごっこを求めるように走り去っていく。
「ちょ、待てよ!」
いつもの調子に戻った蒼星石を彼は追いかけ始めた。途中で止まってくれると信じていたが、それでも追いかけた。

たとえそれが限りある事でもかまわない
ただ彼女がいてくれればそれでいい

聞こえてくるのは彼女の声
それ以外はいらなくなっていた




「・・・は!」
彼は急速浮上する意識に困惑しつつも、起床を迎えた。背景に雨の土打つ音など聞こえない。変わりに雪のしっとりとした足音も
聞こえるはずはなく、ただ、静寂の世界がそこにはあった。
「・・・夢・・か。」
彼はむっくりと起き上がると、カーテンを開け、そこから降り注ぐ太陽光を体いっぱいに受けた。そして蒼星石の存在が無かった事
と理解して・・・泣いた。


それが夢でも幻でもなんでもいい
それでも彼女が俺の心に存在さえするのなら
たとえ世界がでたらめでも
すぐにパチンと音がして、はじけてしまう幻でも


ふと、彼が机に目をやると、一枚のレシートがぽつねんと主を待っているようにたたずんでいた。
抹茶宇治金時アイス2個分の領収書だったそれを見て、俺は笑った。死んでいるように。


俺のプレリュードは、まだ、終わらない