梅雨前線も去り、世間も夏の様相を呈してきたある日の午後のこと。
タクシーがある一戸の家の前で停止した。
ガチャ、という音と同時に中から男がゆっくりと出てきた。
グレースーツをビシッと決めている。
「釣りはいらねえよ、とっときな」
財布から無造作に一枚の札を取り出すと、男はそれを後ろ手で車へ投げ入れた。
無様にもウィンドウに当たって地面に落ちた札を取りに運転手が出てくる。

男は妙に色の濃いサングラスを意味ありげに外し、その家を見上げる。
「俺はやっと死の淵から這い戻ってきた・・・ 今帰ったよ!蒼星石!」
駆け出そうとする男。
運転手はその男の肩を掴み、それを制止させる。
「痛てて、なんだよおっちゃん!病み上がりなんだからも少しやさs」
「にーちゃん・・・若いから格好付けたい気持ちはわかるけどさ・・・」
さっき投げられた札を顔の所まで持ち上げる。
「これ、千円札。後千二百円足んない」



ポケットの中の鍵に、久々な印象を覚える。
俺はわざとゆっくり鍵を回し、家の中へと入った。
そのまま自分の部屋には戻らず居間へ直行する俺。
居間へのドアを開ける。
「・・・お帰り、マスター」
「ああ、ただいま。蒼」
俺の病院での洗濯物を畳んでいる蒼星石がいた。
「病み上がりの体にこの暑さはこたえるでしょ?冷たい麦茶持ってくるよ」
立ち上がって台所へ行く蒼星石。
俺はどっか、と床に腰を下ろす。
窓から見える庭の景色も。相変わらず家事をこなす蒼星石も。
テーブルの上の小さな湯飲みも。少しささくれた畳みも。
何一つ変わってしまったものはない。
「はい麦茶。お茶菓子もどうぞ」
「ありがと。そういや聞いてくれよ!さっきタクシーで帰ってきたんだけどさ・・」
何だか得体の知れない安心感が俺を包んだ。


その夜、俺と蒼星石でささやかな退院祝いをやった。
いつものレバニラ炒め+(α+β)みたいな感じだったが、通常の味付けのレバニラはやはり美味い。
+αの部分は体力を養うにはもってこいの料理ばかりだった。
黙々と食う俺を嬉しそうに見つめる蒼星石。
「ハムッ!ハフハフッ!ハムッ!」
「ふふ、おいしいかいマスター?たくさん食べて早く元気になってね」
まだ人間始めて何十年も経っていないけど、こうも元の日常というのはありがたいものなんだな、とつくづく感じる。
あ、まだちょっと鰻の蒲焼が残ってら。
唸れ俺のおはs―

「やっと戻ってきやがったですか!このダメ人間!」

むせる俺にササッと麦茶をよこす蒼星石。
俺は湯のみ一杯を一気飲みして後ろの翠星石に向き直った。
小さい紙袋を二つ持ったまま俺の前で仁王立ちをしている。
「義姉さん!急にどうしたんですか?!」
「キィィ!開口一番癪なことを言う奴ですね!」
ほら、と言って俺に包みを投げよこす翠星石。
「まぁ一応可愛い妹のマスターですからね。礼儀ってやつですぅ」
包みの中には単一電池パックが入っていた。
「ジュンの家にあったやつですけど、要は気持ちですよ。あ、これはのりからですぅ」
そういって翠星石はもう一方の袋を蒼星石に渡した。
のりさん、ていうのは確か真紅や翠星石のマスターのお姉さんだった気がする。
今度軽い品物でも送ろう。
「ありがとう、翠星石。帰ったらのりさんにお礼言っといてね」
「わかったです。さあ人間!蒼星石の姉が来たんですから、お茶ぐらい出すがいいですぅ!」
「はいはい、わかりました」
「はい、は一回で(ry」
 ・・将来は五月蝿い小姑になりそうだ。
確か紅茶に余りがあったな
「あ、マスター。僕が淹れてくるから翠星石と待っててよ」
台所へ消える蒼星石。

俺は途中まで立ち上がって浮いた腰をまた床に戻す。
「本当に蒼星石に何から何まで・・ってこれは何です?」
翠星石が食卓の上の+βを指差す。
「これは中々上等の赤ワインでしてね、まだ残ってたんで飯と一緒に飲もうと」
「ふぅん・・どれ、ちょっと翠星石にも飲ませるですぅ」
と言うと近くの空きコップにどばどばとワインを注ぐ翠星石。
「あ、義姉さん、ドールにお酒は・・・」
こないだ蒼星石にそのいたずらを決行して酔った勢いに色々と搾り取られたばかりだ。
当然止める必要はあるだろう。
「大丈夫ですぅ。何だかんだ言って翠星石達はドールなんですから、余程アルコールが強くないと酔うことはないですぅ」
ゴクゴク、と牛乳でも飲むようにワインを飲み続ける翠星石。
どうしてこうもドールというのは飲みっぷりがいいのだろうか。
やはり今言った通り酔いにくいものなのk・・・
あれ?じゃあこないだの蒼星石の一件は?
「人間にしては良い酒を持ってるですね。あ、蒼星石もどうですか?」
振り向くといつの間にか居間に蒼星石が戻ってきていた。
何故か下を向いたままだ。
「どうしたですか?前も一緒にワインを飲みあったじゃないですか」
「ちょ、義姉さん、それは本当ですか?」
「嘘言ってどうするですぅ」
 ・・・

九時前になると翠星石も帰り、家には再び俺と蒼星石の二人になった。
「蒼・・・」
「あ、あの、その・・・うん、ごめんなさい・・・」
やっぱりか。
まさか酔った振りをして俺を手篭めにするとは。
蒼星石・・・本当に恐ろしい子!
「マスターっていつも何処か抜けてるとこがあるし・・こないだのワインの事だって、魂胆見え見えで・・・」
ガクンとうなだれる俺。
何てこった。
完璧だと思っていた自分が痛いぜ。
「だから少しお仕置きしとこうかな、って・・」

どうやら蒼星石にはS属性が目覚めているようです。


俺は逃げるように部屋に戻った。
うっ!俺の部屋蒸し暑っ!
「マスター、お風呂どうするー?」
「OK、今から入るよ!」
風呂場から蒼星石の声が聞こえる。
ふと時計を見やるともう十時を指していた。
さっさと風呂に入って今日はもう休m・・・

「こんばんわぁ、マスターさぁん」

バッと窓の外を見る俺。
 ・・いやがった。
俺の腹に傷を負う原因を作った張本人。
「・・水銀燈」
最後に病院で見たような小動物的イメージは感じられない。
つまり、元の水銀燈に戻っているってことだろうか?
鍵が壊れている窓をカラカラと開ける水銀燈。
俺はいつでも逃げ出せる構えをとる。
あの羽根でまた死ぬような目に遭うのはごめんだ。
「どうしたのマスター?お風呂入らないのかい?」
アッー!

「・・あぁ、水銀燈、いらっしゃい。そろそろ来ると思ってたよ」
「あっ、蒼星石・・様ぁ」
徐々に小動物化(雰囲気が)する水銀燈。
俺は病室での蒼星石の言葉を思い出した。
「蒼、確か水銀燈は俺の家に置いとくと言ったよな?」
「うん、でも流石に家に閉じ込めっぱなしはかわいそうだから」
サラッて言ったよこの子!
その間にも、水銀燈は蒼星石を熱っぽい目で見つめている。
「おいで、もう準備はできてるよ」
「あ、ありがとうございますぅ・・」
窓で靴を脱いで俺の部屋に降りると、蒼星石の後に続いて部屋を横切る水銀燈。
 ・・何てこったい。
蒼星石の調教効果は未だに持続していたのか。
気になって俺も蒼星石に続いた。

「はい、今日はレバニラ炒めだよ」
コト、とテーブルに蒼星石が小皿を置く。
丸いテーブルには蒼星石、水銀燈、俺が向かい合って座っていた。
食卓にはおかずのレバニラ炒め、ドールサイズのご飯茶碗、ヤクルトがある。
完全に水銀燈仕様だ。
「ご飯もおかわりあるからね、たんとお食べよ」
いただきます、と言っておずおずと俺達の前で食事を始める水銀燈。
これがあの非情な水銀燈なのだろうか。
こうして見ると大人しくて可愛らしい女の子じゃないか。
「水銀燈のマスターの食事はおいしくないらしいからね、だからここで食べるように言っているんだ」
なるほど、アメと鞭のアメってことか。
蒼星石の美味い飯を食い続けたら効果継続するのもわかるな。
「しかし不味いっていったら病院の飯も不味かったな。聞いたところによるとまったく手を付けない女の子とかいるらしいぞ」
「僕から見ても大した料理ではなかったと思うよ。まあ、病院食だから仕方ないだろうけどね」
ん?水銀燈の奴、ちらちら俺達の方を見てくるな。
別にこの子が気になる話はしてないはずだけど。


「ふぃー」
やっと風呂で落ち着けたな。
多少熱めだが、これは許容範囲内だ。
ちょっと浅めにいれてあるから、あの二人も入るのだろうか。
「マスターさぁん、一人で大丈夫ですかぁ?」
「バスタオルはいつものところに置いとくからねー」
脱衣所で水銀燈と蒼星石の声が聞こえてくる。
「ああ、ありがとうな・・・」
俺の目線は風呂の湯の中にある腹にあった。
そこには塞がったものの、未だに痛々しい傷痕がある。きっとこれは俺が死ぬまで残るだろうな。
でも特に悔しいとか、残念だとか、そういう気持ちは湧いてこない。
この傷は俺の浅はかさがつけた傷。いわば常に自分にある戒めの印みたいなものだ。
俺はこれからも多分、長い年月を蒼星石と共にするだろう。
だから、幾ら強く『深慮を心がける』気持ちを持とうとも、それが薄れることはあるに決まってる。
そんな時、俺はこの傷を見よう。
蒼星石にこれ以上俺が負担になることは、あってはならない。
いつまでも、あの子の良きマスターであるためにも。
そのためにも、今は体を本調子に戻すことを考えようじゃないか。
俺は風呂から出た。



ありゃ?何だか傷痕がじくじく痛むな・・・
!!
そういえばしばらくは風呂に浸かるな、ってお医者先生が言ってた!
ああもう、俺の短絡さはここまでくると病気だな。
なんだか頭がくらくらしてきやがった。
下着とシャツを着ると、俺はふらふらしながら居間へ向かった。

「はぁふぅ~」
情けない声を出して畳みに仰向けで倒れこんだ。
傷に痛みはないが、熱を帯びている気がする。
俺はアホか、バカか
「あらぁ、マスターさぁん、具合悪いの?」
水銀燈が俺に近寄ってくる。
蒼星石の調教で人に心配の念を持つようにもなったのだろうか。
こりゃ逆に調教されてよかったかもわからんね。
「・・・うふふ」
なんだか視線を感じるけど。

畳みの上で仰向けのままで顔を上気させながら傷の熱に耐える俺。
ふと気がついて目を開けると、俺の横には二人がいた。
うぅ、情けねえ。
「マスター、まさかお風呂に直接入っちゃったの?」
「・・・はい」
「てっきり自分で体を拭く位だと思ってたけど?」
「・・面目ないです」
「血は?出血とか無いの?」
「なさそうです」
「一応痛み止めの薬飲もうか、マスター」
「お願いします」
その後意図せず蒼星石と水銀燈の看護を受ける俺。
やっぱりこういう運命か。
運命は確か英語で言うとデスティニー・・

「・・ねぇ、蒼星石様ぁ。私思うんですけどぉ」
「?どうしたの水銀燈?」
「マスターさんって蒼星石様も言ってたように、やっぱりちょっと物事を考えるのが安易すぎじゃありません?」
そういやfateって単語もあったな・・
「だから・・少しお仕置きが必要じゃないかしらぁ」
多分形容詞はfatal・・・って何だって水銀燈?
「へぇ、言うようになったね、水銀燈」
そう言って俺の前で水銀燈の胸を後ろから鷲掴みにする蒼星石。
ちょwwwここで桃色世界フラグかよwwww
「あっ・・!蒼、星石様ぁ・・!」
「僕もマスターに初めてお仕置きしてから、何だかこういう事が愉快に感じる様になってね・・」
「ちょ、蒼星石さん?」
「だからつい水銀燈にもあんなことしちゃったけど・・」
え?ひょっとすると、あのワインの一件で蒼星石のS属性が発現したのか?
じゃあ、あれがなかったら水銀燈のM性質も呼び起こされなかったってことかい?
「本当にもう一度お仕置きをやりたかったのはマスターのほうなんだよねぇ・・」
あああああ・・・・
「今日は精力をつけさせて、明日やろうと思っていたけど・・」

「まあ、いいよ。今から二人まとめて、可愛がってあげるっ!!」



ほんと、俺って奴は先読みってのが下手だ。