翠星石との邂逅が結果的にアリスゲームの扉を開いたことになったのだが、覚悟という点においては、
アリスゲームの当事者である蒼星石と傍観者にすぎない俺との間では微妙なズレがあった。
だからこそ、俺は蒼星石に対して辛辣にアリスゲームの開戦を迫ることができたのであるし、
蒼星石の勝利を疑わなかったのである。さらに言うのであれば、家族というものに対して
微塵も価値を見いだせない俺にとっては、姉妹同士の凄惨な闘いであろうと、主人公であるローゼンメイデンたちの
美しさばかりに目が奪われ、殴り合いの果てに流れる血や飛び散る肉片などに意識が及ぶべくもなかった。
だからこそ、アリスゲームの決意を決めた日の夜に翠星石が再び俺の前に現れたとき、
俺は暴漢に出会ってしまったときのように恐怖に凍り付いてしまった。
結局、あの小柄な翠星石の姿に対して凍り付いてしまうほど俺の心は臆病であり闘いの覚悟などついていなかったのだ。

「やい…起きるですぅ…」
「!!…お前は…」
翠星石が枕元に立っていた。不意の来客に俺は思わずたじろいだ。
思わず蒼星石の鞄を探したが、蒼星石には同じ部屋で眠ることを許していなかったため、
蒼星石の鞄は見つかるはずもなく深夜の来客と一人で対峙せざるを得なかった。
「…何しに…きた…?」
俺は精一杯の平静を装った。昼間の愚挙は俺自身も後味悪く感じていたため、さすがに翠星石に対して飛びかかるような
真似はしないで済んだが、それでもやはり翠星石に対して激しく警戒心を抱き、身を強ばらせた。
「単刀直入にいうですぅ……蒼星石を大切にしてほしいのです…」
「なにを…」
「ごまかすなです。見て分かるように翠星石と蒼星石はローゼンメイデン唯一の双子のドール。
お互いの身体の状態や心の状態は、口に出さなくても何となくわかるのですよ。」
「ほう…それはそれは…」
俺はベッドから身体を起こすと、翠星石の方に頭を向けた。そして、翠星石のオッドアイに目を合わせると、その深遠な深みに
溺れてしまわないように、ギロッと厳しい視線を翠星石の視線にぶつけた。
「ミーディアムもいない状態で、他の姉妹の元へやってくるのは、ローザミスティカを献上しに来たと受け取って構わないか」
ローザミスティカという単語を口にして、いよいよもってアリスゲームが現実のものとして感じられ、俺の鼓動は早くなった。
「人間ごときに凄まれてもおそれをなす翠星石様ではねぇですよ。話をそらすなですぅ。」
翠星石はそんな俺の動揺を見透かしてか、涼しい顔をして、身勝手な独白を続ける。
「蒼星石は…お前の奴隷じゃないのです。……愛でられないドールほど情けないものはないのですよ。
お前はなぜ蒼星石を大切にしないのですか。なぜ、お前は蒼星石を近くにおいてやれねぇのですか…。」
「奴隷…だと?」
あまりに心外な単語に眉を顰めた。俺は一度たりとも蒼星石を奴隷にした記憶はない。
「ひぃ!」
後から知ったことではあるが、翠星石は俺の前に独りで立ちはだかるほどの蛮勇ができる神経の持ち主ではなかった。
このように臆病な翠星石が俺の前に現れたこと自体、蒼星石と俺の生活が異様な物であった証左以外のなにものでもない。
だから、俺が翠星石の些細な一言に対して語気を強めて彼女を睨みつけると、翠星石は思わず身を竦めていたのだ。
「俺の幸せを愚弄するつもりか。盲目な俺に光をくれた…そんな蒼星石との三年間をお前は愚弄するつもりか。」
「しらねぇですよ!!お前なんかのせいで蒼星石が不幸せになっていくことが、翠星石には我慢ならねぇのですよ!!」
翠星石は怒号に近い俺の絶叫に対して絶叫を返した。俺は翠星石と俺の人生は交わることがない平行線であると直感した。
したがって、これ以上の翠星石との議論は無意味である。
「出て行け」
翠星石の言葉に対して耳を閉じた。もはや、彼女のオッドアイに目を合わせることもない。
「いやです。蒼星石を連れてかえるです。」
翠星石は俺の態度に非難の色を滲ませながら絶叫する。
「ならば…本人に聞いてみるんだな…」
「!!!……」
「翠星石……」
これだけ絶叫したのだから当然だ。ただでさえ俺の愛情が足りずに眠りの浅い蒼星石はとっくに目を覚ましていた。
そして、真夜中の思わぬ来客に対して呆然とした表情を浮かべていた。
「蒼星石!!……翠星石と一緒にいくですよ…」
「翠星石…」
蒼星石は状況が理解されず未だ困惑している。その表情は明らかに俺に見せる表情とは異なり、
あどけない少女の困惑した表情に同じであった。
俺はその表情に我慢がならない。

なぜなら蒼星石は完璧な美しさでなければならずそれが俺の母としての証明でありまた俺が母に求める母性そのものが完全なる美しさでなければ俺が蒼星石を母として受け入れた意味がなく蒼星石が困惑する表情など完全な美という理想からは裏切りと言っても過言でないほどに遠く俺はまた母親に捨てられたという思いを抱かないではいられないほどの裏切りでありこの俺の孤独を救うことができるのは蒼星石が完全なる美であり蒼星石が蒼星石でなければならないのだから蒼星石に対して俺が言わなければ行けないセリフは決まっている。

「…iacta alea est」
「やくた…あれ…?」翠星石が訝しがる。
「…………」蒼星石が悲痛な表情をこちらに向ける。俺はそれも我慢ならない。もう一度同じセリフを繰り返す。
「…iacta alea est!」
「………はい、マスター」
蒼星石は諦めたように俯き、しばらく沈黙を守った。
「そ…蒼星石…?」
翠星石が不安げに蒼星石に近づく。翠星石が近づこうとして、一歩前に踏み出すと同時に蒼星石が静かに顔を上げた。
「蒼星石!!」
そう叫んだのは俺だ。蒼星石があまりに美しかったから。
情念を捨てて世の俗物を心に写さない蒼星石の瞳は深海よりも暗く輝いていた。
身体の汚れを洗い流してくれるような限りなく透明で冷え切った光を放っている。
その完成された無表情のまま、得物である庭師の大鋏に手を掛けた蒼星石に、思わず俺は満面の笑みを浮かべた。
完全に美しい!
俺の恍惚とは逆に、翠星石は見る見る青ざめていく。実妹が自分に向ける視線の厳しさの意味が理解されないらしい。
「そう…せいせき…?」
「翠星石…僕はローゼンメイデンの誇りに賭けて、アリスとなりマスターのためのドールとなる」
「いや…ですぅ…」
「サヨナラだ…翠星石」
大鋏に切り裂かれた深夜の冷え切った空気の金切り声は、闘いの序章の音楽としては甘美すぎるだろうか。
(続く)