……ここはどこだろう?
気がつくと僕は見知らぬ場所にいた。混雑する街、雑踏の中に。でも、誰も僕に気付いていない。
立ち並ぶ建物にも脇を過ぎ去っていく人々にも、リアリティーがない。まるで作り物のようだ。

雑踏を抜け、人気の少ない所に向かうと、見慣れた姿が目に入った。マスターだ。
ああそうか、ここはマスターの夢の中、記憶の世界。
マスターはいつものスーツ姿じゃない。顔つきも少し幼い……学生の頃の夢なのかな?
僕と出会う前のマスター……そう思うと、好奇心が首をもたげてきた。過去をのぞき見る後ろめたさを
押しのけるように。

マスターは誰かと歩いている。女の人?僕の知らない人。とても楽しそう。僕の知らないマスターの顔。
あんな笑顔、僕に見せてくれたことはあっただろうか。
いや、たとえあったとしても、僕じゃない人に、僕以外の女の人に、あんな顔を見せるなんてこと自体……
おもしろくない。

二人はどうやら恋人同士。マスターが何かを話しかけ、女の人が笑顔で受け答え、二人は声をあげて笑い、
時折優しいまなざしを互いに向ける。まるで、この世には楽しいことしかない、とでも言いたげに。
マスターの心を反映しているのか、夢の中は眩しいほどの晴れ。雲はどこを探してもその姿を見せず、
美しい青空が優しく世界を包み込んでいた。

でも僕にとっては憎らしい青空。僕の視界にだけ、払っても払ってもぬぐい去れない、薄暗い影が
かかっているように感じる。マスターの心はあの人のものなの?夢の中のマスターは僕に気付いて
くれない。あの人だけを見ている。あの人だけに話しかけ、あの人にだけ向けて笑いかけている。
それがどうしようもなく……どうしようも出来ない事と分かっていても……悔しい。

この記憶を壊してしまいたい……よく磨かれた、ピカピカのガラスを砕くように……。
いつの間にか、そんな恐ろしいことを考えている僕がいた。
記憶とは人の心の一部、『今の自分』を形作る大事なパーツ。それを壊すなんて許されない。
かぶりを振って、恐ろしい妄想を追い出す。我に帰ってしまえばすぐに否定することなのに、そんなことを
考えてしまうなんて。

夢の場面はどんどんと変わっていく。数多の思い出……手をつないでデート、初めて唇を重ねたとき、
旅行、プレゼント、何気ない会話。そして……愛を交わしたとき。
見たくはなかったけれど……喜びに満ちたマスターの夢の中から、離れることができなかった。

また場面が変わった。深深と雪が降り、周りの店には赤緑の飾りが取り付けられている。小さなモミの木も
所々に置かれ、街路樹には電飾が垂れ下がっている。スピーカーからは陽気な音楽が流れ……ああ、
ジングルベルだ。クリスマスの思い出だね。
マスターは指輪を買っていた。だいぶ奮発したのかな、少し高そうな指輪。小さいけれど強く、白色に
輝く宝石を、その頂に据えている。指輪を見つめて嬉しそうに微笑むマスター。彼女の喜ぶ顔でも思い浮か
べているんだろう。

マスターは彼女を探して駆ける。プレゼントを大事に抱えて。でもなかなか見つからない。いつも一緒に
いたのに?
人混みを抜けて、首を左右に向けて、目を皿にして、やっと見つけたとき、彼女の横には知らない男の人が
いた。彼女は男の人に身を預けて甘い言葉を囁き、男の人はそれに答える。
マスターの顔は驚きと絶望の色に染まった。

何かを叫ぶマスター。でも二人はそれを聞くこともなく雑踏に消えていく。涙を流して膝をつき、プレゼン
トは腕から抜け落ちた。周りの風景が黒く塗りつぶされる……店も木も人も……これもマスターの心の反映。
まるで夜空の闇が地上にまで降りてきたかのようだ。すべてが暗闇に飲み込まれて、世界に残るのは僕と
マスターだけになった。

暗闇の中で泣きじゃくるマスターを見て僕は笑っていた。口の端を歪めて持ち上げ、わずかに開いた唇の
隙間から囁くような笑い声を出す、暗い歓喜がにじみ出たような笑顔。
いくら愛を交わしても、いくら『心でつながった』と感じたとしても、やっぱりあの女は、マスターに
ふさわしい人じゃなかった。しょせんは簡単に裏切るような人間……。
僕なら決して……契約の指輪がある限り?いやそんなものがあろうとなかろうと、マスターを裏切らない。
マスターの横にいるのは僕じゃなきゃいけない。僕がだれよりふさわしい。ほかの誰も居させるものか……。

マスターのそばに歩み寄り、そっと抱きしめる。
僕はずっと一緒にいます。絶対に裏切りません。だからマスターも僕を裏切らないでください。絶対に
離さないでください……絶対にですよ?

抱きしめる手に力を込める。僕の指がマスターの肩に食い込み、血がにじむ。誰も入る余地のない、僕たち
だけの世界……。

周りを覆う暗闇は、一層濃くなったようだった。


                            『夢中』完