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第三話 Tota pulchra es」(2008/03/11 (火) 00:23:20) の最新版変更点

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彼女を一目見て女であると理解できたのは俺が男だったからだ。 ネグレクトされたことで卑屈に育った俺に向けられてきた視線はすべて悪意と敵意に見ていたが、 幸いにして何も知らない「人形」であった彼女は、俺に対して偏見のない視線を向けた。 それまで直接誰かと視線を交わしたことのなかった俺には彼女の視線はとても痛く、どうすることもできずたじろいだ。 しかし、同時に俺の存在を等身大ですべて認め、そして俺を許してくれた。彼女は俺の人生に何も批判をしなかった。 許されることを知らなかった俺は、初対面の彼女が俺のすべてを許し、そして必要としてくれたことに、言いようのない喜びを覚えた。 そして、その喜びを「まだ知らない」にも関わらず「懐かしい」喜びだと思い違ってしまった。 その懐かしさは……母の愛情だった。 母親は子どもに生きることを許した。母に許されて子どもは生まれるのである。 母が自らの命を削り、子どもに分け与えることを許し、子どもは生きる。 許されない子どもは、生まれてこないのである。 俺はそれまで許されたことはなかった。少なくとも、許されたことが記憶になかった。 だからこそ、俺を初めて許した彼女は俺をこの世に産み落としてくれた母であった。 彼女に認められて俺は初めてこの世の中に自分という存在があるということを自覚できた。 15年も眠り続けていた胎児は、彼女の許しを得てようやくこの世に生まれてきたのである。 この世の中はすべて女性によって生み出されている。 イエスでさえも、マリアに許されて生まれてきたのだ。マリアが神の母になることができたのは彼女がイエスを許したからだ。 母であるマリアが居たからこそ世界に神が生まれた。 だから、俺を産み落とした彼女を女性と信じて俺は疑うことはなかったのである。 しかし、この思いこみの実態は、子どもの甘えでしかなかった。 未だかつて甘えるということを知らなかった俺は、甘えるという行為についてあまりに無知であった。 甘えることをよく知らないが為に、俺は他人に甘えることは許されない行為だと信じていた。 甘えることが無条件に許される相手……それは母親だ。なぜなら母親は許す存在だと信じていたから。 本当は初めて自分を自分であると認めてくれた彼女に甘えたかったのかもしれない。 しかし、甘えを知らない俺は甘えるたいことを自覚できなかった。 甘えを知らない子ども……その言葉をどう思うだろうか。 子どもは甘えを抱えて生きている。子どもは甘えを知っているのである。 それは俺も例外ではなかった。自覚できなくとも甘えを人並みに抱えていた。 だから、彼女に甘えるために俺は彼女を母であると信仰した。 彼女を母であると信仰宣言した年齢が16歳であるということは、あとから考えると偶然ではないように思えてくる。 16歳となれば性についても十分に理解がなされる年齢である。中学生のそれとは違った生命への尊厳を理解できる。 しかし一方では子どもであり性にたいしていたずらな羞恥心を抱える年齢でもある。 自分を産み落とした人物が性によって穢されていると感じることが卑屈に思える年齢でもある。 しかし、彼女は「ドール」だ。永遠の「少女」である。つまり、彼女は永遠の「処女」である。 処女の純潔に憧れた俺は、彼女から産み落とされたと信じることで、自分の純潔さを思いこみたかったのだ。 処女を母ともつことで俺は生きる誇りを勝ち取ろうとしたのだ。 ちょうどイエスが処女マリアから生まれ、やがて神となったように。 俺も処女から生まれた汚れなき体であると思いこみ、誇りを得たかったのだ。 彼女……蒼星石は永遠の処女。永遠に美しい処女。 そして俺は永遠の処女である蒼星石の一人子…。 俺は信仰告白によって蒼星石との関係がギクシャクしてしまっていた17歳の頃に自分のことをこのように分析していた。 自分の心が何を考えどのような状態にあるのか、すべて分かり切っているつもりになりたかった。 生意気な才気は自分の心に言い訳を信じ込ませるために十分な論理を組み立てることが出来た。 しかし、その擬似的な自省は自己陶酔以外のなにものでもなかった。 残念なことに17歳のころの未熟な俺にはそれを気付くことは出来なかった。 自分の晴れない心の霧を、論理と才気で必死に切り開こうとしていたが、 つかみ所のない心の霧は、もがけばもがくほど、ミルクがやがてクリームになるように、 それは重く手足に纏い付いて俺を溺れさせた。 そして、そのクリームに溺れてみる「理想の自分」の夢はとても甘く俺を虜にしていた。 俺は溺れていることにも気付かずに休日は決まって家で過ごし、自分の心を必死に分析していた。 蒼星石はそんな俺の様子をみて心配になってか、必ず決まって近くで内職を行いながら俺に話しかけてきていた。 今の俺ならばそれがどれだけ大変なことかよく分かる。 蒼星石はいくら俺との生活が二年と長くなり、俺の性格を知り、この世界の様子を知ったとはいえ、 彼女の生活する世界はこの家の中だけであり、その家にはテレビさえもない。 彼女が得られる情報はラジオで聞いたわずかな情報と、窓から見えるわずかな世界しかなかった。 あとは彼女が旅してきた悠久の時間で経験したことだけだ。 これほどまでに少ない情報の中から何とか俺の意識をつなぎ止めようと必死に言葉を紡いでいた彼女の苦労は想像に難くなかろう。 しかも、俺は甘いクリームに溺れることに恍惚としていたために、彼女の話をろくに聞いているわけでもなかった。 必死に語りかける彼女をことごとく無視していたと言われれば何も反論できない。 また、彼女が必死になればなるほど、自分のワガママが許されるのだと認識し、ますます彼女に尊大な態度を取るようになる。 必死な彼女の姿を見ることで言いようもない快感を得ていた。 しかし、ある時そんな休日が崩れたことがある。 「マスター、契約を解除しましょうか…?」 いつものように俺の傍で語りかけてきてくれていた蒼星石が不意にこんなことを言いはなった。 「な…何の冗談だ、蒼星石」 「…マスターは僕のことを必要としていない」 暗く濁った蒼星石の目が俺に向けられた。その目は本当に苦手なんだ…やめてくれ。 「マスターが欲しいのは…お母さんなんでしょ?」 「いや…違う」 半分正解…と心の中では呟いた。 母が欲しいと確かにこの時の俺は分析していたが、正確な分析結果は蒼星石が母であって欲しいということだった。 「マスター、もう僕はここに来て二年になるけど…この部屋にただ閉じこもっていただけじゃないんだ。 レンピカにマスターの家族がどこにいるか探らせていたんだ。」 「な…どういうつもりだ…?」 蒼星石が俺の家族を捜していたという事実は俺にとって非常に意外な事実であった。 また同時に非常に不快な行為であった。そのためか思わず俺は表情を歪めた。 しかし、ここで怒り狂っては本当にすべてを台無しにしてしまいかねないと、俺は何とか冷静さを装った。 「それで……見つかったのか…?」 「うん…」 蒼星石の返答に俺は頭を金槌で殴られたような思いがした。 頭の中が真っ白になり、口の中が乾いていくのが自覚された。 二の句が継げず、口をパクパクさせてしまった。 「マスター……顔が青いよ……?」 蒼星石が俺の突然の変化に驚いたように尋ねた。 彼女には俺の変化の理由が理解できなかったようだった。 「あ…あ……そ……そうせい…せき…」 言葉にならないほど前後不覚となってしまっている。 「マスター!!?」 俺はついに緊張の糸が切れた。 そしてそのままブラックアウトすると床に倒れ込み、意識を失った。 気がつくと俺は暗い闇の中を歩いていた。 (ここは……どこ…だ?) 俺は真っ暗の内側を漂うようにひたすら歩き続けていた。 すると頭を何かにぶつけた。 (痛っ……なんだ…コレは…) この暗闇には目が慣れることがないようで、何とか頭をぶつけた対象を凝視しようとしたが、まったく見えなかった。 しかたがないので、頭をぶつけた対象を手で探り当て、その表面を手のひらでなで回した。 するとその物体の表面は埃の山を触ったような不快感を手のひらに与え、また埃の奥に固い樹のような手触りを隠していた。 (…これは樹の枝なのか?) 俺はその物体を触りながらどこまでつづくか辿っていった。 視界のない中、手触りだけで歩みを進めたためかその物体がとてつもなく巨大に感じられた。 やがて、物体が垂直に立つもう一つの物体に合流していることに気がついた。 (やはり…これは樹なのか…?) 物体の手触りは相変わらず埃をかぶっているようだった。 そのとき俺の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。 (マスター!!) 遠くに聞こえた。聞き覚えのある声だ。 (どこなの!?マスター!!!) (しっかりと覚えているよ、蒼星石。) 俺が蒼星石の名前を思い出すと急に目の前に蒼星石が現れた。 (蒼星石!) 思わず俺は叫んでしまった。 (マスター……良かった…) 蒼星石が今にも泣き出しそうな表情でこちらを見ている。悪いな、蒼星石、その表情も苦手だ、しかも居心地が悪い。 (僕が余計なことをしたから…!!) (あんまり、自分を責めるなよ。あと忘れないうちに言っておくが契約を解除する気はない。それともう家族の話は勘弁してくれ) 弱っているところに追い打ちをかけるように約束を迫るのは、優位に立ちたいときの鉄則だろう?俺を責めるなよ。 (うん…僕もマスターと居たい。色々あるけどマスターとの生活は今まで体験したこと無いような楽しさがあるんだ…) (それは…良かったな…。) 前向きなことばと裏腹な寂しそうな表情を見ても俺はやはり言葉少なになってしまう。 何とかして話題を切り替える。 (ここは……どこなんだ…?) 俺はもっとも素朴な疑問を蒼星石に尋ねた。きっと彼女がここに来たと言うことは何か知っているに違いない。 (……) (なあ…隠さないで) ためらったような表情を見せた蒼星石に俺はしつこく迫る。 観念したように蒼星石は小さく呟いた。 (ここは……マスターの心の樹…だと思う) (心の…樹…?やっぱり樹なのか……そして俺の樹?) 俺の口には次々に疑問が湧いて出る。普段の詰問の癖がこんな場面でも機能しているのである。 (心の樹は…誰しももっているんだ…。その樹の成長を助けるのが双子の庭師の仕事…) (ああ…前にも聞いたな、ならば心の樹は見慣れているはずだろう?なぜ断定できないんだ?) (それは……マスターの心の樹が……他では見たことないような樹だから…) (俺の樹は変なのか……?) (いや…変とは思わないけど……普通じゃないんだ) (蒼星石……世間的にはそれを変と言うんだぞ) 俺はフォローにならないフォローをする蒼星石をすかさず野次る。 俺の野次を聞いて帽子が飛んでしまいかねないほど激しくブンブンと首を振って否定した。 (ちちちちち…違うよ!!た、た、ただ、マスターの樹が少しだけみんなと違うというかかわっているというか…) (かわっているは漢字で「変」と書くよ、蒼星石) (わわわ…マスター…ごめんなさい) 蒼星石はついにフォローできなくなったのかシュンとなって頭を下げた。 必死になってフォローして勇気づけてくれる彼女に俺は安心感を覚えた。 (気にしていないよ、変というのは個性的で良いじゃないか) (マスター…) (問題なのは……それがどういう風に変だということだ。普通と何が違う…?) (はっきりいったほうがいいのかな…?) (ああ、俺の心の樹だからな) (簡単に言えば、「病気」に冒されている) (ああ…なるほど) 自分の精神が普通じゃないってコトくらいよく分かっているよ。 (誤解しないで、それが悪いことだとは限らないから) (フォローしなくても…) (そうじゃ無いんだ。マスターの心の樹は「病気」と「共生」してしまっているんだ) (共生…?) (病気…といった言い方がまずかったかもしれない。マスターの心の樹は、心の樹を覆うこの埃  ……たぶんカビみたいなものなんだけど…、カビと共生している) じゃあ、俺はさっきこの埃を「不快」だと言ったが、つまり俺は自分の心の産物を「不快」だって言った訳か。 (しかし…おかしくないか?埃であれカビであれ心の樹が植物みたいなものなら、そんな外敵と共生なんてできないだろ?) (そのはず…なんだ、普通は。でもマスターの心の樹はなぜかカビと共存できている…。しかも、このカビのおかげでマスターの心には雑草が生えない。 このカビがすべて心の雑草が生まれてくることを防いでしまっているんだ) (なら願ったりかなったりじゃないか) (まあ…そうかもしれない。ただ……庭師として見てしまうと異様に見えるんだ…) 蒼星石が俺の心の樹に手をかけてその小さな手で幹をさすった。 俺はなんだか蒼星石に俺の心を触られたようで少しだけ温かい気持ちになり、また恥ずかしい気持ちになった。 (でも…僕はマスターの心の樹に干渉することはできないんだ…) (ああ…) 蒼星石の幹を撫でる手を通して、彼女が俺を大切に思ってくれていることが不思議と伝わってきた。 (もしかした…この心の樹のせいかもしれないな…) (え?) 蒼星石が独り言のように呟いたことに俺は耳ざとく反応した。 (いや…なんでもないよ……帰ろう、マスター?) (あ…ああ…) 俺に向けて伸ばした蒼星石の手を俺はしっかりと握った。 すると蒼星石はそのまま子どもを導くようにまっすぐと暗闇の中を歩き始めた。そして漂う歩みはやがて眠気となる…。 気がつくと俺は自分の家の天井を眺めていた。 「俺…は?」 「マスター、おかえりなさい」 俺の横で蒼星石が微笑んでいた。俺は今の出来事が現実なのか夢なのか判別がつかず首をひねった。 「蒼星石…?」 「夢じゃないよ、マスター。いや……ある意味で夢かもね……フフフ…」 蒼星石が艶めかしい微笑をしていた。 俺は蒼星石が俺の考えを酌んで、こう言ったのだろうと解釈した。 一度深呼吸をしてから俺は上半身を起こした。 「蒼星石…」 そして、俺は彼女の名前を呼んだ。 「なあに?マスター」 「どこにも行くなんていわないでくれよ、いなくなった家族より、俺は蒼星石が大事だ」 恥ずかしいので蒼星石の方は見ないで言った。だから今彼女がどんな反応をしているかは俺には分からない。 「ありがとう、マスター……その…あの…」 「抱いてくれて構わない」 「ありがとう…」 俺は随分回りくどい言い方をしたが、これがいつも通りだった。 俺は彼女を抱っこして愛でることは出来ない。母親だと信仰してしまっているから…。 自分の母親を抱いて愛でることが君はできるかい? 俺が抱けないかわりに蒼星石は自分が抱かれたいときは、俺を抱き締めるということを覚えた。 抱っこされるよりもずっと彼女の満足感は薄かったにも関わらず、彼女はその薄い幸福感をしっかりと味わっていた。 蒼星石らしい慎ましさだったと今でもはっきりと思い出せる。 しかし、この自然と逆の行為が、俺がますます蒼星石に母を重ね合わせることを促していることに、蒼星石も、また俺自身もまったく気付いていなかった。 この時もいつものように俺は大きな蒼星石の腕に抱かれ、するはずもない甘い乳の匂いを嗅ぎとって、赤ん坊になりすましていた。 タイトルの訳と意味 「何もかもが美しいあなた」 聖母マリアを称える詩。

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