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  赦す、という言葉は重い。
  口に出すことは簡単だ。ただこの言葉を告げるだけならば、1秒もあれば事足りる。
  故にこそ、この言葉を用いるものはある種の覚悟をしなければならない。口にする側も、告げられる側も、だ。

  人は、根本的なところで孤独なものだ。
  出会いから共感を持ち、寄り添うことで安らぎを感じ、触れ合うことで温もりを感じることがあったとしても、それは揺らがない。
  何故ならば、人は他者の心の内を本当の意味で知る術を持たないからだ。
  そう、神の視点なるものを持たない人にとって、絶対的に確かだと言えるものは己の意識のみでしかない。
  あるいは、人の心の内を読み取る、そのような魔術異能の類でもあればこの前提は覆るのかもしれない。しかし、それですら、そうして読み取れるものは己の主観に映ったものだけだと忘れてはならない。
  端的にその例を挙げるならば、誰かが怒っていたとしても、それが何故どういう理由で怒っているのか、どう思って怒っているのか、いやそもそもそれは本当に怒っているのか、他人にはそれらのことを推測は出来てもその正確なところを理解することは出来ないのだ。
  だからこそ人は、言葉で、態度で、相手の真意を確かめようとする。その根底に不理解が横たわっているが故に、それぞれにとって確かだと思えるものでその溝を埋めようとするように。しかし、それすらも時が経つほどに信じることは難しくなり、故にこの思考はループし延々と続いていくこととなる。
  しかし、この不理解は悪ではない。永遠に変わらぬ関係性などというものは、存在しないのだ。この不理解があるからこそ、人は離れることを恐れ、出会いを重ねるのだと、そう言うことも出来るだろう。何より、他者には絶対に理解出来ぬその領域にこそ、その人の「人生」とでも言うべきものが存在するのだと、少なくとも自分は思っている。

  しかし、赦すという言葉の意味を考える時、この不理解こそが問題になってくるのだ。

  他者に対し「赦す」という言葉を口にするものは、『許可』したものとして多かれ少なかれその相手の人生を背負うことになる。その言葉で、自身が相手の正当性(この場合本当に正当であるかどうかはあまり関係が無い)を保障したことになるのだから、それは当然の責任だ。
  しかし、ことその段になっても、人の間に存在する不理解は欠片もその存在を揺らがせない。むしろより確かなものとして、『赦した』者の背で存在を主張し始める。
  結果として、『赦した』者はまったくの不理解のまま他者の人生を背負うことになるのだ。これは非常な苦痛であり、断言してしまえば重荷以外の何者でもないだろう。己のものならばまだ放り出すことも出来たかもしれないが、元々が他者のものとあってはそれも出来ない――それをしてしまっては、無責任の誹りを受けざるをえないだろう。
  だから、『赦す』という言葉を口にするものは、その言葉を言う前によく考えなくてはいけない。自分は、その相手の為にその重荷を背負い続けられるか。途中で投げ出さずにいられるか。そのことを。

  そして、『赦す』と言われる側もまた、理解し、考えなくてはならない。
  まず、自分は、その相手に僅かとはいえ自身の人生を預けることが出来るのか。それだけの信頼をその相手に向けることが出来るのか。
  その相手が信頼に足る人間だったとして――今度は、そんな相手に『不理解』という重荷を背負わせられるのか、どうか。
  相手にその負担を強いてまで、自分は赦されたいのか。赦されたとして、それに納得できるのか。
  ――なにより、負担を強いることがわかっていて、それでもなお、その言葉を言って貰いたいと思えるだけの相手か。

  この覚悟が無ければ、本来赦すという言葉は使うべきではないし、求めるべきではない。些細なことならばまだしも、その人にとってその事実が重要であれば、あるほど。

  この論理は、何も「赦す」という言葉に限らず、相手に見返りを求める全ての情動に関して、普く通じるロジックだろう。


    記すべき名は無し、故に無名


カテゴリ: [手記] - &trackback- 2006年05月02日 10:55:45
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