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  よく使われる言い回しだが、自分にも許せないものが三つある。
  これは、その三つ以外ならば全てを許す、というような類のものでは無い。人間の意識はそれほど単純ではないし、己も自身の性向嗜好に関しての全てを知っているわけではない。また、その時になってみないとわからないことというのも多いだろう。しかし、その三つに限って言えば、自分は普段から明確に意識をするようにしている。
  その一つが、友への侮辱だ。
  どれだけ親しかろうと、例え冗談であろうと、人には守るべき礼というものがある。
  例えばそれが己に向けられたものならば、冗談にしろ本気にしろその対象となるべき相手に直接向けられたものであるならば、構わない。
  己へと罵倒が向けられたとしても、それは我が身の未熟故であり、単に、相手には己がそう見えているということでしかない。元より、道化の身には守るべき誇りも無く、それらは参考にこそすれ怒るべきことではない。
  友が罵倒を受けたとしても、同様。本人がその場に居るならば怒るなり笑うなり、何らかの対処をするだろう。その判断は友自身がするべきものであり、余計な横槍を入れていい類のものではない。……まぁ、度が過ぎれば、その上で余計なお節介をすることはあるかもしれないが、少なくとも直接相手へと意思を伝えたことは評価出来るだろう。
  だが、己へと向けられる友の侮辱。これだけは、どうあっても見過ごすことは出来ない。
  理由は、幾つかある。道理が通らない、ということもその大きな理由の一つだが、最大のものではない。
  その最も大きな理由は、少なくとも自分は、これまでに出会ってきた友人達に、彼ら彼女らとの出会いに感謝を抱いているということ。そして彼ら彼女らにとってもその出会いが良いものであったと言えるようにありたいと思っていることだ。
  だから、自身が原因で友に悪意が向けられるようなことがあれば、その申し訳が立たないし――、何より己の誇りが許さない。
  そう、前言を翻すようだが、道化の身にもささやかながら誇りはあるのだ。
  それは、これまでの人生で多くの出会いを積み重ねて来たということ。その出会いの積み重ねによって、今現在の自分が形作られてきたのだと自信を持って言えること。そして最後に、どれだけささやかであろうとも、出会った相手に己もまた影響を与えているであろうということ。
  その事実こそが、道化を気取る己の守るべき誇りだ。
  それゆえに、その誇りを汚すものを、己は許さない。


    記すべき名は無し、故に無名


カテゴリ: [手記] - &trackback() - 2006年05月01日 19:06:13
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最終更新:2006年05月02日 09:27