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  人が『普通』であろうとすることは難しい。
  何故ならば、『普通』とは『絶対』と同じくそれ自体が現実には存在しない、矛盾を孕んだ概念なのだから。

 『普通』であるということの定義は、他者との相対性の中にしか存在しない。
  それ故に、この定義は酷く曖昧だ。郷に入っては郷に従え、の言葉通り、土地や種族、国や宗教によって――どころか、極論個々人其々の認識の中にすら――『普通』の基準は無数に存在し、決して一つに纏まることは無い。
  あるところでは『普通』とされた行動は、あるところでは『普通でない』とされることなどは、よくある話だ。
  では、どうやってこの『普通』という基準は作られるのだろうか。
  答えは、簡単だ。
 『普通』などという基準は、実際には存在しない、皆が存在すると思い込んでいるだけの幻想に過ぎない。
  存在するのは、其々の社会、集団の中で無難に過ごすための漠然とした雰囲気のようなものだけでしかなく、それすらも確固たるものだとは到底言えない。
  そう、つまり『普通』とは、強いて言えばこの常に形を変え不確定であり続ける雰囲気のことを指しているのだろう。
  唯一絶対なる形を持たぬが故に、イコール『普通』な人間というものもまた存在しない。
  多かれ少なかれ、人はその雰囲気に対しての過不足を持っている。それこそが人其々が持ちえる差異であり、個性と呼ばれるものなのだろう。
  もし、一切の過不足無く『普通』を体現することが出来る存在があるとしたら、まさにそれこそ『普通』という概念そのものか、全知全能にして零知零能なる絶対神と呼ばれる存在だけでしかない。

  しかしそれでも、人は幻想を信じて『普通』という言葉を口にし、時にそれを目指そうとする。
  そして、それは間違いでは無い。


    記すべき名は無し、故に無名


カテゴリ: [手記] - &trackback- 2006年05月05日 23:03:20

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