他者性(Alterity)

 他者性とは、差異や異質性を指し、しばしばこれらの言葉と互換的に用いられる。17世紀フランスの哲学者ルネ・デカルトRené Descartesは、とりわけ自らの権利の中において「(大文字の)他者Other」の理解をすることに特に留意し焦点を絞った文化的・歴史的なアプローチに向けて、「他者」理解を基礎付け確立した。そもそも他者性の概念はデカルトの「自己self」に見られる哲学的意味を有していたわけだが、いまや、カルチュラル・スタディーズにおけるものへと変化を遂げている。前文に見られるように、概念自体のこうした変容は、大文字の使用か否かによってしばしば区別される。たとえば、「大文字の他者Other」の形は、欲望やG.W.Gヘーゲルの著作に関心を抱いていた精神分析家ジャック・ラカンによって踏襲されてもいる(アイデンティティidentityの項を参照)。カルチュラル・スタディーズにおいて、「他者性」は人種、エスニシティー、ジェンダー、階級といった諸差異をめぐる問題とより深い関係がある。また、ポスト・コロニアル研究(ポスト・コロニアルpost-colonial /ポストコロニアリズムpostcolonialismの項を参照)において用いられるサバルタンの概念は、イタリアのマルクス主義思想家アントニオ・グラムシ(Gramsci 1971を参照)から採用されたものである。サバルタンとは、支配者層であるエリート階級との相違によって規定されるものであり、ポスト・コロニアルの理論上では、被支配者層の固有社会(indigenous societies?)と彼らの文化を指す。
 文化的意味において、「他者性」は、ルネッサンス以降のヨーロッパ社会で禁じられつつも欲望された集団、例えば、女性、エクゾチックな集団exotics、ボヘミア人bohemians、未開人、および農民と関係がある。このような文脈では、古典派時代のコンサート音楽において、ワルツに続きメヌエットを使用をすることで「分別のある中産階級は、堕落した上流階級の不穏な魅力と同時に、素朴な庶民的魅力にも折り合いをつけていた」と解釈することもできる(Middleton 2000a、63頁)。 ひいては、ソナタ形式(analysis分析の項を参照)も、結果的に差異の表現を助長し「男性的」第一のテーマに対し、第二のテーマは「女性的」と慣例的に言われてきた(ジェンダーgenderの項参照)。また、調性体系自体が差異を反映しても言える。周知のとおり、モーツァルトは『後宮からの逃走Die Entfuhrung aus dem Serail(1785-86)』のトルコ人の登場人物、オスミンの激怒を表現するさい、調性を慎重に選択した(Kivy1988)。
 まさに他者性に関係がある研究分野と言えば、―少なくとも西洋的観点から言えば― おそらく民族音楽学であろう。フィリップ・ボーマンPhilip Bohlmanは、1950年代を通して民族音楽学がいかに非西洋の音楽を「(大文字の)他者Other」として考慮するという態度から新しい展望へと移行したか、次のように概説している。

:音楽の解釈学的(解釈学hermeneuticsを参照)可能性は、ほかのあらゆる音楽― ましてや西洋音楽とは何の関係も持たない―その音楽の独自性の中に、その結実の中にこそあるべきである。…まさにこうして「規範」は逆転した。そこでは、真の「(大文字の)他者Other」の音楽とは、西洋の芸術音楽である…西洋の芸術音楽の「規範」に反発するよりは、むしろより多くのさらに魅力溢れる非西洋音楽の「規範」の方へと目を向けることの方が重要であった。(Bohlman 1992、121頁)

この引用は、音楽の規範形成にとって、差異の認識と他者の排斥こそが中心的なものであるという事実を示している。ボウマンは、音楽学の研究分野は、幾多の西洋の単一規範を根底に抱える人種主義、植民地主義および性差別を隠蔽する、と言う…規範は、「偉大な人間Men」から生み出され、「偉大な音楽Music」は「自己self」と「他者Other」の事実上、論破できない区分を創出した。「自己」は、規律のもとに単一化され、「他者」は、過少評価の末、非難されるためであった(前掲書、198頁)。
 英国の音楽学者リチャード・ミドルトンRichard Middletonは、とりわけ西洋のクラシック音楽の形式上の「(大文字の)他者」としてのポピュラー音楽(ポップ・ミュージック?)という意味合いでこの議論をさらに発展させた。彼は、「ブラック・アトランティックBlack Atlantic」で展開されているポール・ギルロイPaul Gilroyのモダニズムの発展における役割という観点からの黒い「他者Other」の概念を援用することで、論を進める。ミドルトンは、ギルロイの着想をさらに「低い大西洋」という一考察にまで拡大し、エリート階級に対し大衆を対置してみせることで、「低いこと」と「黒いこと」が、そこでどのように相互に関連しているのかを思考した。ここでミドルトンは、音楽における「他者性」に2つのアプローチを提案する。1つは、ワーグナーが差異そのものを文体上統合し、音楽言語に転化させ、北欧神話を設定することで体現したような、同一化であり(スタイルstyleの項を参照)、他方は、「(大文字の)他者」が「明白な社会的差異の範囲で外面化される」場としての抵抗と投影である。

こうしたことは、「農民舞曲」、「民謡Volkslieder」、「ボヘミンアン・ラプソディー」、あるいは「スコットランド」地方や「スラヴ」地方のキャラクター・ピース(性格的小品)、「農園歌」といったその他もろもろの19世紀のレパートリーの限りない魅力を根拠づける戦略にほかならない。これらの同一化と投影の戦略は、ブルジョア的な自己権威の中に無限の差異によって引き起こされた潜在的な脅威を管理するとともに、そのような差異を安定した階層構造へと還元させることを目的としていた。(Middleton 2000a、62頁)

ミドルトンは、モーツァルトのオペラ「魔笛」(1791)を取り上げて、高い(high)登場人物が、多様な低い(low)登場人物、例えば、「女性や「ムーア人」のモノスタトスと奴隷の人々として表象された黒人、そして滑稽な鳥射しパパゲーノとしての庶民」(前掲書、64頁)によって、いかにバランスを保たれているかに注意を促す。啓蒙主義の人間性を尊重する欲望、その切望と限界を明らかにしているにもかかわらず、オペラ全体を通じて、まさに社会集団と個人のヒエラルキーが規定されている。しかも彼はジャズにおける、デューク・エリントンDuke Ellingtonの「ジャングル・スタイル」の開拓をも考察した。ジャングル・スタイルは、白人を魅了したエキゾチックな魅力と「黒人の庶民的な嗜好に根を下しつつもヒップや異種混淆的な現代的芸術であるビバップ」(前掲書、73頁)を志向する都市ジャングルのサブカルチャー様式subculturalismとを結びつけるものであった」。Bernard Gendronはさらに、「他者性」に関するディスコース(ディスコースdiscourseの項を参照)がジャズやポピュラー音楽(ポップ・ミュージック?)で使用される前衛的表現を構成することを促した経緯も分析した(Gendron 2002)。
 西洋音楽に見られる差異の区分は、ニュー・ミュジコロジーの学者の著作によって重要視され始めた(ニュー・ミュジコロジーnew musicologyの項を参照)。ある学者は、19世紀の作曲家が、どのように調性・表現・主題の構造的に異なる方法を持って自身の音楽領域を特徴付けていたのかを考察した。アメリカのフェミニスト音楽学者Ruth Solieは、音楽学者にとって重要な問いは「日々の生活で我々が理解し、制定している差異は、ど'の'よ'う'に'社会生活や文化によって構築されているのか」であると指摘する(Solie 1993、10頁)。この一連の検討に関して言えば、スーザン・マクレアリSusan McClaryのブラームス第三交響曲(1883)に関するナラティブ・アジェンダの議論を一例として挙げることができる。マクレアリは、不協和とみなされている「他性的」な調性は「統一されたアイデンティティの邪魔になって」、「最終的に、物語閉鎖のために抑制されなければならない」(McClary 1993b、330頁)とする。マクレアリは、19世紀において不協和の調性が頻繁に使用されることになったことを、「当時広く行き渡っていたロマン主義的な反権威主義」(前掲書、334頁)と結びつけ、その作品は概して、「英雄主義、冒険、争い、征服、自己selfの形成、「(大文字の)他者Other」への脅威、そして19世紀末期のペシミズム」 (前掲書、343頁)について語る資料であるとまとめる。
 また、「他者性」はスタイルや音楽言語、さらに芸術家の受容の差異をも含意することもあり、ヘンデルやシューベルトといった作曲家が同性愛者であったか否かを研究する学者達を生み出した(Thomas 1994; McClary 1994; ゲイ・ミュジコロジーgay musicologyを参照)。十分に裏付けられた例としては、作曲家自らが他の芸術家や社会とは異質であると感じていたと言えよう――フィリップ・ブレットPhilip Brettは、ベンジャミン・ブリテンBenjamin Brittenが一生涯感じ続けた疎外感をめぐってとりわけ貴重な研究を成した(Brett 1993)。亡命生活を強いられた作曲家は、差異の感覚を必然的に経験するものだ。そして、Peter Franklinはおよそ1940年頃、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ラフマニノフ、コルンゴルトといった多様な作曲家の家とも言うべき都市、ロサンゼルスの例外的な力に関して考察した(Franklin 2000)。価値が制定され異質の環境と結びついたように戦前のヨーロッパ音楽の価値(価値valueの項を参照)が魅力的な混合であり、映画音楽作曲家、コルンゴルトによって感受されたような差異の感覚(場所placeの項を参照)をこの研究は顕在化させた。
 自らが音楽実践の周縁に置かれていると実感した作曲家や音楽家は、彼ら自らの周りを取り囲んでいる障壁を突き崩そうとするだろう。――この主張は、20世紀にニューヨークのヒスパニックの音楽家と同様に、女性の作曲家にも適用できる。それでこそ、彼ら自身の人生期において、自らは外側に位置していると感じていたにもかかわらず、現に今となっては、中心として認められるようになった、例えばワーグナー、エルガー、マーラーという作曲家にさえ、議論は及ぶかもしれない。中心であるか周縁であるかの判断は、歴史につれて不断に変化するものという視点を忘れてはならない。

更に詳しく:McClary 1992; Street 2000

  • サバルタンについては、(下級者)とでも付記しとくと知らない人が読みやすいかも。exoticsは異境人、bohemiansはボヘミアン(ジプシー又は《ラ・ボーエム》的文脈で)の方がベター?「ブラック・アトランティック」はここでは書名ではなく概念名として登場しているから、「黒い大西洋」として、その後の「低い大西洋」と対比させても良いかも。discourseとnew musicologyは用語統一の頁には「言説」「新音楽学」とあり。終わりから3段落目のRuth Solieの引用で「ど'の'よ'う'に'」となっているのに何か意味は?終わりから2段落目最終文、意味不鮮明。最終段落「20世紀に」は「女性の作曲家」だけにかかっている様な気が。 -- Nemoto (2008-1-14 21:43:17)
  • 終わりから3段落目の"narrative agendas(「物語のアジェンダ」の方が?)"を巡るくだり:マクレアリは、不協和として登録された「他者としての」調性が、「アイデンティティの統一の前に立ちはだかって」おり、「最終的に、物語の終結のために打ち倒されなければならない」と指摘する。 -- Nemoto (2008-1-14 21:52:11)
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最終更新:2008年01月17日 03:22
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